蒼へ沈む
3.1
あの冷たい玄関先での別れから数日後。
次の休日、私は逃げ出したい気持ちを必死に押さえ込み、再び彼の店『汐灯』のドアを押し開けた。
カラン、とベルが鳴る。
カウンターの奥にいた彼は、私を一瞥すると、ほんの少しだけ困ったような、ひどく疲れた顔をした。けれど、「帰れ」という明確な拒絶の言葉を口にすることはなく、ただ黙って私に一杯の水を出してくれた。
「……謝りたくて」
グラスの水滴を見つめながら、私は震える声で切り出した。
「お父さん、あの夜、お礼も言わなかったでしょう。せっかく、家まで送ってくれたのに……あんな態度をとって、本当にごめんなさい」
「いいよ」
私の謝罪を遮るように、彼がグラスを拭きながら、ひどく平坦な声で答えた。
「怒ってもないし、傷ついてもいない。……あんな反応されるの、当たり前だと思ってるから」
「……どうして」
私は弾かれたように顔を上げた。
「当たり前なんかじゃない。燈矢は何も悪いことしてないのに、どうしてそんな風に言うの……?」
私の問いかけに。
彼は拭いていたグラスをコトンとテーブルに置き、大きな溜息を一つ吐いた。そして、自分自身を冷酷に切り刻むような、諦めきった目で私を見据えた。
「……夏菜。何度も言うけど、俺はお前とは違うんだよ」
静かな店内に、彼の低く、乾いた声が落ちる。
「……お前は立派な医者で、親父さんも町で一番の診療所の院長だ。でも俺は、大学も出てない。この町で、大して稼げるような仕事をしてるわけでもないし。……おまけに、身体だって五体満足じゃない」
ズボンの下にある、無機質な義足。
彼が一番触れられたくないはずのその事実を、彼自身の口から『欠陥品である理由』として語らせてしまったことが、私の胸を刃物のように抉った。
「どう考えても、釣り合わないだろ。お前の親父さんが、俺みたいな底辺の男を毛嫌いするのは、世間的に見て当然のことなんだよ」
「燈矢、違う……私はそんなこと――!」
「……俺も」
泣きそうになる私を制するように、彼が不意に、ひどく優しい声を出した。
それは、15年前の図書室で私を呼んでいた時の、あの無防備で温かい少年の声だった。
「俺も、夏菜とは……またこうして会えて、話すことができて、本当に嬉しかった」
彼が薄く微笑む。
けれど、その瞳の奥には、もう私への未練に抗うような熱はなかった。あるのはただ、大切なものを自らの手で手放すという、静かで確かな『覚悟』だけだった。
「……でも。これ以上は、正直お互いにとって良くないって思ってる」
それが、彼から私へ渡された、二度目の、そして本当の意味での『引導』だった。
お互いに惹かれ合っていることを分かった上で、それでも一緒にいることはできないという、大人になったからこその、最も残酷で優しい別れの言葉だった。