蒼へ沈む
4.4 Toya Side.
激しく窓を叩く雨音に混じって、控えめな、けれど必死なノックの音が聞こえた気がした。
こんな夜更けに誰だ、と訝しげに思いながら『汐灯』の勝手口のドアを開けた瞬間。俺は、全身の血の気が引くのを感じた。
「……夏菜……?」
そこに立っていたのは、傘もささずにずぶ濡れになった夏菜だった。
濡れた髪が頬に張り付き、水滴が顎先からポタポタと落ちている。そのひどく蒼白な顔を見た瞬間、俺の脳裏に、なぜだか『人魚のようだ』という場違いな比喩が浮かんだ。
……我ながら、馬鹿げてる。
すべてを終わらせたはずのこんな時にも、目の前の彼女を『綺麗だ』なんて思ってしまうなんて。俺の心は、自分でも呆れるほどこの女に囚われきっていた。
「……親と喧嘩、したから」
寒さに震える青い唇で、彼女がぽつりと呟いた。
32歳の女とは思えない、あまりにも子供じみた理由に思わず呆れが込み上げてくる。
「……何だそりゃ。子供みたいなことしてんなよ」
俺はわざと冷たく言い放ち、ドアの隙間から彼女を睨み下ろした。
「何があったか知らないけど、家、戻ったほうがいい。……俺は、お前を泊めたりなんかできない」
彼女の人生を狂わせないために、俺があんな思いをして身を引いたというのに。
すべてを無駄にする気か、と突き放そうとした俺に向かって、彼女は濡れた瞳で真っ直ぐに俺を睨み返し、とんでもないことを言った。
「燈矢のせいでしょう」
「はぁ? 意味分かんねーこと言うな」
俺のせいだ? 冗談じゃない。俺は彼女の幸せのために、一番正しい道を選んだはずなのに。
感情的になって声を荒らげた俺の前で、彼女は一歩も引こうとしない。
この女は、昔からいつも俺の調子を狂わせる。
勝手で、気分屋で。どうしようもないほど深く、抗えない引力で俺を飲み込んでいく。
……本当に、海みたいだと、いつも思う。
「……ネックレス」
睨み合う沈黙の中、ふいに彼女の視線が、俺の服の胸元へと落ちた。
そこにあったはずの、服の上からでも微かに分かる小さな膨らみがないことに気づいた彼女の顔が、さらに青ざめる。
「……あの、鯨のネックレス……どこ、」
「……捨てた」
俺は、自分の弱さを隠すように、ひどく冷酷な声で事実だけを告げた。
「数日前の海にな。……別に、今お前が気にすることじゃないだろ。もう全部、終わったことなんだから」
これでもう、彼女も諦めて帰るだろう。
そう思った次の瞬間。彼女の目から、雨水とは違う大粒の涙が、ボロボロと止めどなく溢れ出した。
「……どうして、捨てられるの?」
心底絶望したような、震える声だった。
「夏菜……?」