蒼へ沈む
父に頼まれた、気難しいお年寄りの往診の帰り道。
私は重たい医療バッグを提げたまま、高台の住宅街を、生温かい潮の香りに満たされながらゆっくりと歩いていた。
眼下に広がるのは、昔から何も変わらない景色。ただ黒々と凪ぐ海以外、本当に何もない、息の詰まる町だ。
それでも、最近はこの寂れた海をわざわざ目当てに来てくれる物好きな観光客も少なからずいるらしい。先ほどから、立派なカメラを首からぶら下げた、見知らぬ若い大学生らしき女の子の二人組とすれ違った。
「クリームソーダ、すっごく美味しかったね!」
「ねー! 噂通り、店長さんめちゃくちゃイケメンだったし。なんかちょっとミステリアスでさぁ」
すれ違いざまに、無邪気にはしゃぐ声が漏れ聞こえてくる。
そのあまりにも自由で軽やかな響きに、私はほんの少しだけ胸の奥がチクリと痛むのを感じた。ついこの間まで、私もあんな風に、背中に見えない羽根を生やして都会を歩いていたはずなのに。
彼女たちが一体何の話をしているのか、疲労した頭ではすぐには分からなかった。
けれど、重い足を引きずるようにして彼女たちが歩いてきた方向――海沿いの細い裏道をしばらく進むと、おそらくその話題の中心だったであろうものが不意に目に入った。
古い漁師の納屋を改装したような、こぢんまりとした建物。
すっかり暗くなった路地に、そこだけポツンと、温かいオレンジ色のランプの光を落としている。
「へぇ……カフェなんてオシャレなものが、この町にできてるなんてね」
入り口に立てかけられた小さな木製の看板には、『汐灯』と控えめな文字が刻まれていた。
家に帰れば、机の上にはあの重たい釣書が待っている。
今の私には、あの消毒液の匂いが染み付いた家へ真っ直ぐ帰る気力は、到底残っていなかった。
私は何かに引き寄せられるように、その見慣れないアンティーク調の重たいドアの取っ手に、そっと手を伸ばした。