蒼へ沈む
カチャリ、と布巾で拭き上げたグラスを棚に戻す音だけが、静かな店内に響いていた。
やがて、キッチンでの片付けを終えた燈矢さんはカウンターの中から出てくると、ようやく私の隣の席に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「……久しぶり。汐鳴に、戻ってきてたんだな。知らなかった」
至近距離で響くその低く穏やかな声に、肩が微かに跳ねる。
そっと横顔を見上げると、なぜか遠い海を想起させる深い色の瞳は、私が記憶している18歳のあの頃のままだった。
「燈矢さんこそ……こんなお店を開いてるなんて、知りませんでした」
絞り出すようにそう答えた私の声は、ひどくよそよそしい敬語になっていた。
15年という歳月と、私たちが触れてはいけないあの日の記憶が、どうしようもない見えない壁となって二人の間に横たわっている。
「ははは。似合ってねぇだろ、我ながら」
彼は短く自嘲するように笑うと、組んだ両手を膝の上に置き、何でもないことのように過去を語り始めた。
「高校出て、2年ほど街の方にある専門学校に通ってさ。しばらく修行みたいな感じで向こうの店で働いてて……まぁ、ずっとそのまんまでもいいかなって思ってたんだけど。地元の知り合いが空き店舗の場所を貸してくれるっていうんで、独立するのもいいかって思って、帰ってきたんだ」
淡々と語られるその経歴には、ひどく綺麗に蓋がされていた。
本来なら水産高校を卒業して、そのまま漁師として海に出るはずだった彼。
……その夢が絶たれた、あの陽光が差していた夏の日。
私はぎゅっと、彼に気づかれないように右手を握りしめる。
そして、彼の左脚に視線を落とした。
……布に覆われているから、綺麗な歩き方だから。きっと地元の人以外誰も気付けやしない。それでも、わずかな隙間から見える冷たい質感の金属の足が、あの夜は決して夢ではなかったことを否応なしに告げてくる。
残酷で血の滲むような理由を、彼はまるで最初からカフェの店主になるのが夢だったかのように、薄く笑って誤魔化したのだ。
「……そっか。すごいね、自分のお店を持つなんて」
彼が必死に繕った優しい嘘を剥がすことなんて、私にできるはずがない。
私はただ、カウンターに置かれた冷めたコーヒーの底を見つめながら、ひどく曖昧に頷くことしかできなかった。