白衣とエプロン②お医者様は今日も妻に恋わずらい
職場には、私と“保坂先生”の関係を知っている人が二人だけいる。
一人は麗華先生で、もう一人が貴志先生だ。
「どうせ、ボクじゃなくて保坂センセイが土曜の外来ならいいのにとか思っているんでしよ?」
「そ、そんなことは」
(本当は“ある”けど……)
「キミ、顔に出てるよ」
「ええっ」
「なんてね」
(うぅ、この真っ黒貴公子め。っていうか、ラッキーパラダイスって何……)
何を隠そう元ホストというご経歴をお持ちの貴志先生は、イケメンのうえ女性のあしらいがお上手で。
その麗しいお姿から、女性スタッフから“貴公子”などと呼ばれていたりする。
「そんなお花畑な頭で仕事は大丈夫なの?」
「先生方が快適にお仕事できるように頑張ります♪」
わざと芝居がかった調子で答える私に、貴志先生がげんなり大きなため息をつく。
「キミねえ……」
「先生が突っかかるからじゃないですか」
「これだから、恋愛偏差値の低い子は。保坂センセイもお気の毒に」
「余計なお世話ですよ」
(そりゃあ、私は恋愛偏差値低いけど……)
貴志先生が、こんな口の利き方をするのは私だけ。
貴志先生が、私と保坂先生の関係を黙っていてくれるのは何故なのか。
その理由を、私はよくよく知っている。
でも、わからないふりをする。
たとえ貴志先生がすべてをお見通しでも、それでもなんでも。
夕方を過ぎて今日の診療も無事終了。
さて、帰りはいつものスーパーの特売に寄って、家についたらすぐご飯の支度に取りかかって。
それから、それから、それから――。
彼が外勤の日は、いつも私のほうが帰宅が早い。
こまごまとした家事をやりながら、彼の帰りを待つこの時間が意外と好き。
ここが彼の帰る場所。
そして、ここは私たちが暮らす家。
待ち遠しく彼を想う時間さえ、ときめきと幸福にあふれている。
とくに、土曜日は――。
(本当、お花畑だ……)
貴志先生に言われたのは癪だけど、実際ほんとうに土曜日の私の頭は常春だ……。
(秋彦さん、早く帰ってこないかなぁ)
ご飯の支度をしていても、お風呂の掃除をしていても、ずっと頭の片隅には“そのこと”が息をひそめている。
そうして、玄関に彼の帰還を察知するやいなや、私はリビングから一目散に駆け出した。
「おかえりなさいっ」
思い切り抱きついた彼のからだは、まだ夜気をまとっていて冷たくて。
私は背中にまわした腕にいっそう力をこめて、強く強く抱きしめた。
「おつかれさまです」
「ただいま。ごめんね、少し遅くなった」
その胸に頬をうずめながら、瞳をとじて、ふるふると全力で首を横にふる。
だって、決して彼を責めたいわけでも、謝らせたいわけでもないのだもの。
「グレみたいだ」
彼はくすりと笑いながら、私の頭をよしよしと撫でた。
“グレ”こと“グレムリン”ちゃんは、以前にこの家で一緒に暮らしていた猫ちゃん。
もともと事情があってお預かりしていた猫ちゃんで、今は本来の飼い主さんである彼のお姉さんのお家にいる。
「グレちゃん、いつもちょっ早でかけつけて熱烈お迎えしてくれましたもんね」
「千佳さんだって」
「え?」
「熱烈お迎えありがとう」
きゅっと抱きしめ返されて、心がみるみる満タンになる。
「ご飯、できてますよ」
「うん。お腹と背中がくっつきそう」
空腹のとき、彼は決まってこの台詞を言う。
「今夜はシチューにしました。あったかいものが食べたくて」
「いいね。白? 茶色?」
「なんと、オレンジ色です!」
「えっ、オレンジ?」
歩く彼にじゃれつきながらリビングへ。
こうしていると、確かにちょっと猫っぽいかも?
「カボチャのシチューなんです」
「なるほど、だからオレンジ」
「はい」
「それは楽しみだ」
夜ごはんを食べたら、食後のお茶をいただいて、そのあとはしばらくそれぞれの時間をすごす。
彼はいつもルーティンどおり。
夜はきまって、ご飯を食べたらチェロの練習をする。
そのあとお風呂に入って、お風呂をあがったら少し勉強をして――本当いつもきれいに順番どおり。
このマンションは遮音防音に優れた造りがウリらしく、規約でもわりと遅い時間まで楽器を弾くことが許されている。
私は音楽の知識はさっぱりだけれど、彼のチェロは大好きだ。
「千佳さん、ちょっと見すぎ」
「だって、見ていたいんだもん」
調弦を終えて音階練習をする彼をガン見する私。
「ただのスケールだよ」
「いくら見てても飽きないです」
「弾いている僕はすぐに飽きてきたりして」
そして、苦笑しながもやっぱり練習を続ける彼。
彼のチェロはつい聞き惚れて時間を忘れてしまうほど心地よく、ひたむきに音と向き合うその姿は、とても美しくて色っぽい。
だから、いつまでも聞いていたいし、見ていたいのだけど、本当にきりがないから。
「お風呂、先に入ってきちゃいますね」
声をかける私に、彼が弓を引く手はそのままに大きく頷く。
このやりとりもまた、ふたりのいつものお約束。
(さて、と……)
クローゼットの引き出しを開けて、真剣に迷い、悩む。
まったく土曜の夜の頭の中は、どこまでも続くお花畑だ。
クローゼットでは、脱がされるための下着を選び、お風呂では、抱かれるための体を磨く。
なんか、こういう過ごし方ってとっても幸福で贅沢だなって思う。
砂時計の美しい砂が落ちていくさまを、飽くことなくうっとりと眺めているような。
時が満ちるのを待つ、その待つこと自体がなんだか豊かで楽しくて。
「今夜は???」とソワソワするより、「今夜はふたりで……」とワクワクするのが断然いい。
彼は私と入れかわりでお風呂を済ませると、ちょっと書斎で勉強をする。
私は医療機関で働くようになるまで知らなかったのだけど、医師というのは「なる」までも大変だけど「なってから」もまた大変で。
医師免許を取得したあと、保険診療を行える医師の資格を得るのに二年。
そのあと、各々が選んだ診療科の専門医の資格を得るのまでに三年から五年。
つまり「〇〇科の医師です」とある程度自信をもって言えるまでには、けっこうな努力が必要ということ。
ちなみに、彼は耳鼻咽喉科の専門医の資格を有していて、現在はさらにアレルギー専門医の資格を取得すべく研鑽を積んでいる。
そんな彼に刺激を受けて、私は簿記の勉強を始めたところ。
実は前職のときに3級は取得していたので、現在は2級を勉強中。
3級を取得したのは、SEとして会計システムの案件にかかわることになったのがきっかけだったのだけど。
今の仕事に転職するとき採用の評価ポイントになっていたらしい、と知ったのはわりと最近だったりして。.
彼は彼でやるべきことを頑張っている。
そう思うと、私までなんだか俄然やる気がでる。
決して、負けず嫌いというわけではなくて(そもそも張り合おうとも、張り合えるとも思っていないし)。
うまく言えないけれど“別々だけど一緒”みたいな?
そういう“今”がたまらなく嬉しくて、幸せで。
そして、この勉強タイムに、私は縛りとも言える約束を人知れず課している。
それは、いくら飽きてきても、決して私から「ねえまだ?」と彼のところへ行かないこと。
それをしたとて、彼が怒ったり不機嫌になるようなことはないのだろうけど、でも――。
「千佳さん」
こうして、彼がリビングにお迎えに来てくれるのを、やっぱり待っていたいから。
一人は麗華先生で、もう一人が貴志先生だ。
「どうせ、ボクじゃなくて保坂センセイが土曜の外来ならいいのにとか思っているんでしよ?」
「そ、そんなことは」
(本当は“ある”けど……)
「キミ、顔に出てるよ」
「ええっ」
「なんてね」
(うぅ、この真っ黒貴公子め。っていうか、ラッキーパラダイスって何……)
何を隠そう元ホストというご経歴をお持ちの貴志先生は、イケメンのうえ女性のあしらいがお上手で。
その麗しいお姿から、女性スタッフから“貴公子”などと呼ばれていたりする。
「そんなお花畑な頭で仕事は大丈夫なの?」
「先生方が快適にお仕事できるように頑張ります♪」
わざと芝居がかった調子で答える私に、貴志先生がげんなり大きなため息をつく。
「キミねえ……」
「先生が突っかかるからじゃないですか」
「これだから、恋愛偏差値の低い子は。保坂センセイもお気の毒に」
「余計なお世話ですよ」
(そりゃあ、私は恋愛偏差値低いけど……)
貴志先生が、こんな口の利き方をするのは私だけ。
貴志先生が、私と保坂先生の関係を黙っていてくれるのは何故なのか。
その理由を、私はよくよく知っている。
でも、わからないふりをする。
たとえ貴志先生がすべてをお見通しでも、それでもなんでも。
夕方を過ぎて今日の診療も無事終了。
さて、帰りはいつものスーパーの特売に寄って、家についたらすぐご飯の支度に取りかかって。
それから、それから、それから――。
彼が外勤の日は、いつも私のほうが帰宅が早い。
こまごまとした家事をやりながら、彼の帰りを待つこの時間が意外と好き。
ここが彼の帰る場所。
そして、ここは私たちが暮らす家。
待ち遠しく彼を想う時間さえ、ときめきと幸福にあふれている。
とくに、土曜日は――。
(本当、お花畑だ……)
貴志先生に言われたのは癪だけど、実際ほんとうに土曜日の私の頭は常春だ……。
(秋彦さん、早く帰ってこないかなぁ)
ご飯の支度をしていても、お風呂の掃除をしていても、ずっと頭の片隅には“そのこと”が息をひそめている。
そうして、玄関に彼の帰還を察知するやいなや、私はリビングから一目散に駆け出した。
「おかえりなさいっ」
思い切り抱きついた彼のからだは、まだ夜気をまとっていて冷たくて。
私は背中にまわした腕にいっそう力をこめて、強く強く抱きしめた。
「おつかれさまです」
「ただいま。ごめんね、少し遅くなった」
その胸に頬をうずめながら、瞳をとじて、ふるふると全力で首を横にふる。
だって、決して彼を責めたいわけでも、謝らせたいわけでもないのだもの。
「グレみたいだ」
彼はくすりと笑いながら、私の頭をよしよしと撫でた。
“グレ”こと“グレムリン”ちゃんは、以前にこの家で一緒に暮らしていた猫ちゃん。
もともと事情があってお預かりしていた猫ちゃんで、今は本来の飼い主さんである彼のお姉さんのお家にいる。
「グレちゃん、いつもちょっ早でかけつけて熱烈お迎えしてくれましたもんね」
「千佳さんだって」
「え?」
「熱烈お迎えありがとう」
きゅっと抱きしめ返されて、心がみるみる満タンになる。
「ご飯、できてますよ」
「うん。お腹と背中がくっつきそう」
空腹のとき、彼は決まってこの台詞を言う。
「今夜はシチューにしました。あったかいものが食べたくて」
「いいね。白? 茶色?」
「なんと、オレンジ色です!」
「えっ、オレンジ?」
歩く彼にじゃれつきながらリビングへ。
こうしていると、確かにちょっと猫っぽいかも?
「カボチャのシチューなんです」
「なるほど、だからオレンジ」
「はい」
「それは楽しみだ」
夜ごはんを食べたら、食後のお茶をいただいて、そのあとはしばらくそれぞれの時間をすごす。
彼はいつもルーティンどおり。
夜はきまって、ご飯を食べたらチェロの練習をする。
そのあとお風呂に入って、お風呂をあがったら少し勉強をして――本当いつもきれいに順番どおり。
このマンションは遮音防音に優れた造りがウリらしく、規約でもわりと遅い時間まで楽器を弾くことが許されている。
私は音楽の知識はさっぱりだけれど、彼のチェロは大好きだ。
「千佳さん、ちょっと見すぎ」
「だって、見ていたいんだもん」
調弦を終えて音階練習をする彼をガン見する私。
「ただのスケールだよ」
「いくら見てても飽きないです」
「弾いている僕はすぐに飽きてきたりして」
そして、苦笑しながもやっぱり練習を続ける彼。
彼のチェロはつい聞き惚れて時間を忘れてしまうほど心地よく、ひたむきに音と向き合うその姿は、とても美しくて色っぽい。
だから、いつまでも聞いていたいし、見ていたいのだけど、本当にきりがないから。
「お風呂、先に入ってきちゃいますね」
声をかける私に、彼が弓を引く手はそのままに大きく頷く。
このやりとりもまた、ふたりのいつものお約束。
(さて、と……)
クローゼットの引き出しを開けて、真剣に迷い、悩む。
まったく土曜の夜の頭の中は、どこまでも続くお花畑だ。
クローゼットでは、脱がされるための下着を選び、お風呂では、抱かれるための体を磨く。
なんか、こういう過ごし方ってとっても幸福で贅沢だなって思う。
砂時計の美しい砂が落ちていくさまを、飽くことなくうっとりと眺めているような。
時が満ちるのを待つ、その待つこと自体がなんだか豊かで楽しくて。
「今夜は???」とソワソワするより、「今夜はふたりで……」とワクワクするのが断然いい。
彼は私と入れかわりでお風呂を済ませると、ちょっと書斎で勉強をする。
私は医療機関で働くようになるまで知らなかったのだけど、医師というのは「なる」までも大変だけど「なってから」もまた大変で。
医師免許を取得したあと、保険診療を行える医師の資格を得るのに二年。
そのあと、各々が選んだ診療科の専門医の資格を得るのまでに三年から五年。
つまり「〇〇科の医師です」とある程度自信をもって言えるまでには、けっこうな努力が必要ということ。
ちなみに、彼は耳鼻咽喉科の専門医の資格を有していて、現在はさらにアレルギー専門医の資格を取得すべく研鑽を積んでいる。
そんな彼に刺激を受けて、私は簿記の勉強を始めたところ。
実は前職のときに3級は取得していたので、現在は2級を勉強中。
3級を取得したのは、SEとして会計システムの案件にかかわることになったのがきっかけだったのだけど。
今の仕事に転職するとき採用の評価ポイントになっていたらしい、と知ったのはわりと最近だったりして。.
彼は彼でやるべきことを頑張っている。
そう思うと、私までなんだか俄然やる気がでる。
決して、負けず嫌いというわけではなくて(そもそも張り合おうとも、張り合えるとも思っていないし)。
うまく言えないけれど“別々だけど一緒”みたいな?
そういう“今”がたまらなく嬉しくて、幸せで。
そして、この勉強タイムに、私は縛りとも言える約束を人知れず課している。
それは、いくら飽きてきても、決して私から「ねえまだ?」と彼のところへ行かないこと。
それをしたとて、彼が怒ったり不機嫌になるようなことはないのだろうけど、でも――。
「千佳さん」
こうして、彼がリビングにお迎えに来てくれるのを、やっぱり待っていたいから。