マルベリーの木の下で、あなたはわたしの全てを奪う

第8話 血よりも赤く、蜜よりも甘い

 ヴィルヘルムとリヒャルト、どちらが次の男爵に相応しいのか。二人が十三歳になる頃、父エドガーは頭を悩ませていた。

 成長するにつれ、ヴィルヘルムは静、リヒャルトは動という性格の違いがはっきりと際立つようになった。
 ヴィルヘルムは物静かで優しい性格で、いかにも貴族然とした雰囲気だ。読書が好きで、ダンスや乗馬といった活動的なことは苦手。口数も少なく、何を考えているのかよくわからない時がある。正直、学校の成績もやっとこさ中の上、といったところだった。
 それに対しリヒャルトは底抜けに快活で、いつも陽気に笑っている。力仕事で汗を流すのが好きで、領地の方々(ほうぼう)の農場から頼られていた。しかも特にがりがり勉強しているわけでもないのに試験の成績はいつもほぼ満点で、女の子からも人気があった。

 正直誰もが、リヒャルト坊っちゃまが次の男爵様になりなさるだろうと思っていただろう。

 だが息子達が十五になった時、エドガーが最終的に跡継ぎに選んだのはヴィルヘルムだった。その理由は多くは語られなかったが、皆、暗黙の了解で分かっていた。

 奥様が序列にこだわられたのだ、先に産まれたほうが跡継ぎであって然るべし、と。

 誰も表立って口にはしなかったが、リヒャルト坊っちゃまがお気の毒だという善意の皮を被った不満の声が、運河の底に溜まる泥のように領民の間に広がった。

「ねえリヒャルト、あなた本音はどう思っているの?」
「本音って、何がさ?」
「伯父様の決定されたことよ。ヴィルヘルムが男爵家を継ぐって……」
「ああ、それ? 別にどうでもいいかな」
「どうでもいいって、そんな」

 リヒャルトとエレノアは崖の上に生えているマルベリーの大木の下にいた。
 エレノアは十三歳になっていた。女性にしては背が高く、くせのない長い金髪を一本のお下げにして背中に垂らしている。
 腕を伸ばして頭の上の枝からマルベリーを摘み取りながらふと見ると、リヒャルトがニヤニヤしながら自分を見つめていることに気づいた。

「なあに?」

 照れながら問いかける。

「いや、子供の頃よくエレノアのためにこの木に登ったけど、もう自分で届くようになったんだね」
「え? どうしたの急に」
「別に……ただもう僕の助けは要らないんだなと思ってさ」

 急に寂しそうに笑うリヒャルトに、エレノアはムキになって反論した。

「何を言うの、リヒャルト! 私、まだまだあなたの助けが必要よ?……ねえ、本当に行ってしまうの? 考え直してはくれない?」

 リヒャルトは笑って首を横に振った。

「僕がずっとパイロットになりたいって言ってたのは知ってるだろ?」
「それは知ってるわ」
「じゃあ、気持ちよく送り出してくれよ。……()()()のためにも、僕はここにいないほうがいい」
「リヒャルト……」

 リヒャルトは町の中学を卒業する直前、両親に帝都の近くに新しく創設された飛行機のパイロット養成学校に進むと告げた。男爵と男爵夫人にはまさに寝耳に水だった。来年、ヴィルヘルムが家督を継ぐ。当然リヒャルトは兄を補佐してくれるとばかり思っていたからだ。

 帝都の上級貴族とは違い、こんな片田舎の男爵など、実態は裕福な農家とほぼ変わらない。種蒔きや刈り入れ時には領主が先頭に立って鍬や鎌を振り上げて領民に模範を示す必要がある。だが、すぐに疲れて寝込んでしまうヴィルヘルムにその役目を負わせるのは心配だ。だから屈強なリヒャルトを当てにしていたのに……

 そんな目論見(もくろみ)を言外に匂わせながら両親はリヒャルトを引き留めたが、彼の決意は揺らがなかった。すると今度は両親は男爵家の令息とあろうものがパイロットなどというやくざな商売に足を突っ込むなど許さん、そんな下らない学校の学費など出さんぞと彼を脅しにかかった。だがリヒャルトはそんなことはとうの昔にお見通しで、卒業までの学費も下宿代ももう用意してあるから問題ないと言い放った。学費は入学試験の成績が良かったので免除になるし、下宿代は今まで領地の農作業を手伝うたびに農家と交渉して駄賃を払ってもらっては貯めていたのでそれを使う、と。そこまで言われると男爵はもう何も言えなかった。

「だからあんなに毎日泥まみれになってあちこちの農場で働いていたのね」
「お金もだけど、体を鍛えたかったのさ。パイロットは身体が資本だからね」

「……でもやっぱり、私、あなたに帝都には行って欲しくない……」
「どうして?」

「帝都には誘惑が沢山あるわ……華やかで美しい令嬢も……んっ! 」

 エレノアの呟きは途中で遮られた。いつの間にか目の前にいたリヒャルトがマルベリーの実をエレノアの口いっぱいに押し込んだのだ。

「何をバカなことを、エレノア。僕が君以外の女性に目移りするはずなんてないだろう? そんなことを心配していたのかい? 全く君ときたら」
「んん…だって……リヒャ……」

 口の中が塞がってうまく話せないエレノアの唇の端から赤い果汁が一筋流れた。それをリヒャルトが親指で拭うとその指をゆっくりと舐めてこう言った。

「甘い……エレノア、君の唇のようだよ」
「リヒャルト……」

 そのままリヒャルトはエレノアの腰に手を回して彼女を抱きしめた。

「心配しないで、たった三年じゃないか……約束するよ。首席で卒業して空軍の将校になって君を迎えに来る。いつか君を元帥夫人にしてあげるよ。だから待っててくれるだろう?」
「元帥夫人になんてなれなくても構わないから、必ず帰って来て。待ってるわ、リヒャルト……」
「好きだ、エレノア。卒業したら結婚しよう」
「私も好きよ。嬉しいわ、リヒャルト……」

 初めての口づけは甘く、二人の唇は紅く染まった。
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