姫花 —ヒメバナ。花言葉は、裏切りの恋—
休憩室を通り過ぎて、その上にある屋上庭園に出た。

お昼休みが終わろうとするこの時間、屋上には誰もいなくて、二人きり。真上に昇った太陽の光を全身に浴びながら、彼は両手を高く挙げて「ん~」って唸りながら伸びをする。

「翔くん、どうしたの」

私の声に、彼は振り向いてその目を細めた。おいでと言う代わりに手を差し出して、私を呼ぶ彼はいたずらっ子みたい笑う。

その手に誘われるまま彼の傍まで歩み寄ると、ぽすんって彼の胸に抱きとめられて、途端に強まる翔くんの香り。その香りを胸いっぱいに吸い込むと、「また匂いかいでるでしょ」って笑う声が聞こえてくる。

「すみれ……今日ごめんな」

「ううん」

「会食が入っちゃって」

「……うん」

翔くんは海外事業部で期待をかけられているエース。英語はもちろん、北京語、韓国語、フランス語を操る彼。今はスペイン語とポルトガル語を習得するため勉強中。

翔くんがプレゼンをするとなれば、男女問わず見学者が殺到する。実力も人気も社内でトップ。本当に……どうして私と付き合うことになったのか、いまだに謎。

「会いに来てくれてありがとう」

「時間できたら、ごはん食べに行こう」

「うん」

「旅行でもいいな」

「……そんなに時間取れる?」

「……箱根、ぐらいなら? たぶん」

「ふふっ」

少し肌寒くなってきた風の中、彼の温かさが心地いい。抱き締められて温もりを感じると、胸がトクントクンって嬉しそうな音を奏でる。

こうやって抱き締められると、よくわかるの。翔くんが好きって。でも——

「ごめんな」

翔くんの謝罪のことばを聞きながらゆっくりと目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは、昨夜の甘い時間の甘い眼差し。翔くんを好きな気持ちは本当。でも、今、胸の中にいるあのヒトを……どうしても私は消すことができない。

あの時、あのヒトの胸に飛び込まなければ、知らずにいられたのに。あの時、翔くんが傍にいてくれたなら、あのヒトを求めずにいられたのに。

ねえ、翔くん。あの時、あなたが私を選んでくれたなら、あのヒトがあの場にいなければ、私たちは今も純粋にお互いを想い続けられていたのかもしれないね。

一度口にしてしまえば、もっと、もっと欲しくなる。それが、禁断の果実。
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