愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
出会いは結婚式の二次会で
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ほうれん草とマッシュルームのキッシュ、キャビアののったスモークサーモンのカナッペ、トマトとアボカドのブルスケッタ。
その他にもいろんな種類のフィンガーフードや、一口サイズのスイーツが大皿に美しく盛り付けられ、野崎陽菜の目の前に並んでいる。十月だから、秋の果物である梨やリンゴ、シャインマスカットなどもふんだんにある。
ビュッフェ形式の立食パーティーだった。
しかし開会から一時間が過ぎても、用意された大量のご馳走はあまり減っていない。陽菜自身も、ふたつみっつは口にしたものの、それ以上食べられそうにない。
ついさっき、披露宴でフルコースのフランス料理を食べたばかりだからだ。
この日陽菜は学生時代の友人の結婚式に招待され、二次会までフルで参加していた。
新婦とは、そこまで親しかったわけではない。彼女から連絡がきたのは、二年半前の大学の卒業式以来だ。招待状から、新郎側の招待客との人数合わせだというのが透けて見えるようだった。
それでもずっと会っていなかった学友たちに会えるのならと出席を決めたのだが、披露宴で同じテーブルを囲んだ彼女たちは、いまや新郎の友人たちとの交流に夢中だ。
陽菜は二次会に出会いを求めていなかったため、同じ空間にいづらくなり、そっと離れてしまった。
浮かない顔でほぼ手付かずのご馳走を眺め、人知れずため息をつく。
小さめとはいえデパートの地下で買ったらワンカット五百円はするであろうキッシュが、五十個以上整然と並んでいる。この二次会が終わったら、これらはいったいどこに行ってしまうのだろう。キッシュだけじゃない。フルーツやスイーツだって。
明日からはもやし中心の食生活を送ることが確定しているのに食べ溜めておけないことが残念でならない。
今日一日のためにかかった費用を、頭のなかで計算してしまう。
ご祝儀三万円。二次会費用一万円。古着屋で買ったネイビーのワンピースとベージュの靴が合わせて七千円。美容室に行くお金までは捻出できなかったので、髪のセットは自分でした。
一か月の生活費とたいして変わらない金額を一日で使ったと思うと、頭がクラクラしてくる。
「すみません」
陽菜はすぐ横を通りかかったウエイターを呼び止めた。
「はい」
「白ワインいただけますか」
「少々お待ちくださいませ」
ウエイターはすぐに白ワインの入ったグラスを持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
固形物を胃に入れるのはもうしんどいが、飲み物ならまだいけるかと思って頼んでみた白ワインは、上品な香りで飲みやすかった。
酒の種類に詳しくはないけれど、陽菜はそこそこイケる口だ。
これならもう一杯くらいは飲めそうだ、と思いながらグラスを口に運ぼうとしたときだった。
ドンッ、とけっこうな勢いで、誰かが後ろから肩にぶつかってきた。
「あっ」
持っていたグラスが傾き、陽菜の胸から腹にかけて白ワインがかかった。
ぶつかった若い男性はそんな陽菜に気づく様子もなく、酔っぱらい特有のふらふらした足取りで会場の出口の方へと歩いていく。
陽菜はまた、人知れずため息をつく。
ついてない。
ワンピースの色が濃いからあまり目立ちはしないが、白ワインがかかったところは冷たい。いまいち足に合っていない靴のせいでできた靴擦れは痛いし、もう帰りたい。
「大丈夫?」
頭の上から声をかけられ顔を上げると、背の高い男性が心配そうな顔で陽菜を見ていた。チャコールグレーの三つ揃いのスーツにシルバーのネクタイがよく似合っている。新郎の友人だろうか。初めて見る顔だった。
整った顔立ちに、育ちの良さを感じさせる佇まい。婚活中の友人たちが見たら放ってはおかないだろうと思ったとおり、新郎の友人たちと固まって話している子が何人か、ちらちらとこちらに視線を送ってきている。
「あ、きみ。なにか拭くものを持ってきてくれないか。タオルがいいな」
男性はハンカチを差し出そうとしてそれでは足りないと思ったのか、近くのウエイターを呼び止めた。
「かしこまりました」
ウエイターはすぐにホテルの名前が入ったタオルを持ってきてくれた。陽菜は持っていたグラスと皿をテーブルに置き、それを使って自分にかかった白ワインをワンピースが皺にならないよう上からポンポンと叩いて拭いた。
「ありがとうございます、助かりました」
まだ湿ってはいるが、拭く前までよりは全然ましだ。
「明日にでもすぐクリーニングに出せば、染みにはならないと思うよ」
「そうします」
なんて答えたが、古着屋で買った五千円のワンピースなんてクリーニングに出すほどのものでもない。家に帰ったら白ワインのかかった部分に重曹をふりかけて、熱湯を注いで揉み洗いすれば十分だ。
「……大丈夫?」
男性がもう一度聞いてきた。
「はい、色の濃いワンピースを着て来てよかったです」
「そうじゃなくて」
男性はまだ気遣うような顔をしている。
「ワインがかかる前から元気なさそうにしてたから、具合でも悪いのかなって」
「ああ……」
見られていたのか。
たしかに、楽しそうに談笑している輪から外れたところでひとりため息をついていたら、そう思えるかもしれない。でもこのにぎやかな会場の片隅でひっそり立っていた存在感の薄い自分に気づいてくれるなんて、優しいひとだ。
「ご心配おかけしてしまってすみません。でも大丈夫です」
陽菜は男性の顔を見上げて笑いかけた。
「美味しそうなお料理がこんなにたくさん残ってしまっているのがもったいないなと思っていただけなんです」
「ああ、たしかに」
男性は難しい顔をして頷いた。
「フードロスが社会問題になっているのに、宴会料理は変わりませんね。余るくらい用意しないと安く済ませようとしているように思われてしまうからなんでしょうけど」
「そう、ですね」
陽菜は目を泳がせた。
社会問題なんて立派なことは全然考えていなかったからだ。いまの自分の満腹具合と明日からの節約生活のことしか頭になかった。
ただでさえギリギリの生活を送っているのに、来月にはいま借りているアパートの更新があり、更新料が家賃の一か月分かかるのだ。どうやりくりするか考えるだけで頭が痛い。
「……タッパー持ってくればよかったなあ」
「え?」
「あ、なんでもないです」
「タッパーですか。それはいいかも」
ごまかしたが、ばっちり聞こえていたらしい。恥ずかしい。
男性はニコッと笑った。人懐っこそうな笑顔だった。
「持ち帰り用の容器を用意している飲食店も増えてきてますよね」
どうやらエコな方面に解釈してくれたようだ。
「ところで……」
男性がさりげなく宴会場のなかを見回した。それから陽菜の耳元に顔を近づけ、声のボリュームとトーンを落としてささやく。
「よかったら、一緒に抜け出さない?」
ほうれん草とマッシュルームのキッシュ、キャビアののったスモークサーモンのカナッペ、トマトとアボカドのブルスケッタ。
その他にもいろんな種類のフィンガーフードや、一口サイズのスイーツが大皿に美しく盛り付けられ、野崎陽菜の目の前に並んでいる。十月だから、秋の果物である梨やリンゴ、シャインマスカットなどもふんだんにある。
ビュッフェ形式の立食パーティーだった。
しかし開会から一時間が過ぎても、用意された大量のご馳走はあまり減っていない。陽菜自身も、ふたつみっつは口にしたものの、それ以上食べられそうにない。
ついさっき、披露宴でフルコースのフランス料理を食べたばかりだからだ。
この日陽菜は学生時代の友人の結婚式に招待され、二次会までフルで参加していた。
新婦とは、そこまで親しかったわけではない。彼女から連絡がきたのは、二年半前の大学の卒業式以来だ。招待状から、新郎側の招待客との人数合わせだというのが透けて見えるようだった。
それでもずっと会っていなかった学友たちに会えるのならと出席を決めたのだが、披露宴で同じテーブルを囲んだ彼女たちは、いまや新郎の友人たちとの交流に夢中だ。
陽菜は二次会に出会いを求めていなかったため、同じ空間にいづらくなり、そっと離れてしまった。
浮かない顔でほぼ手付かずのご馳走を眺め、人知れずため息をつく。
小さめとはいえデパートの地下で買ったらワンカット五百円はするであろうキッシュが、五十個以上整然と並んでいる。この二次会が終わったら、これらはいったいどこに行ってしまうのだろう。キッシュだけじゃない。フルーツやスイーツだって。
明日からはもやし中心の食生活を送ることが確定しているのに食べ溜めておけないことが残念でならない。
今日一日のためにかかった費用を、頭のなかで計算してしまう。
ご祝儀三万円。二次会費用一万円。古着屋で買ったネイビーのワンピースとベージュの靴が合わせて七千円。美容室に行くお金までは捻出できなかったので、髪のセットは自分でした。
一か月の生活費とたいして変わらない金額を一日で使ったと思うと、頭がクラクラしてくる。
「すみません」
陽菜はすぐ横を通りかかったウエイターを呼び止めた。
「はい」
「白ワインいただけますか」
「少々お待ちくださいませ」
ウエイターはすぐに白ワインの入ったグラスを持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
固形物を胃に入れるのはもうしんどいが、飲み物ならまだいけるかと思って頼んでみた白ワインは、上品な香りで飲みやすかった。
酒の種類に詳しくはないけれど、陽菜はそこそこイケる口だ。
これならもう一杯くらいは飲めそうだ、と思いながらグラスを口に運ぼうとしたときだった。
ドンッ、とけっこうな勢いで、誰かが後ろから肩にぶつかってきた。
「あっ」
持っていたグラスが傾き、陽菜の胸から腹にかけて白ワインがかかった。
ぶつかった若い男性はそんな陽菜に気づく様子もなく、酔っぱらい特有のふらふらした足取りで会場の出口の方へと歩いていく。
陽菜はまた、人知れずため息をつく。
ついてない。
ワンピースの色が濃いからあまり目立ちはしないが、白ワインがかかったところは冷たい。いまいち足に合っていない靴のせいでできた靴擦れは痛いし、もう帰りたい。
「大丈夫?」
頭の上から声をかけられ顔を上げると、背の高い男性が心配そうな顔で陽菜を見ていた。チャコールグレーの三つ揃いのスーツにシルバーのネクタイがよく似合っている。新郎の友人だろうか。初めて見る顔だった。
整った顔立ちに、育ちの良さを感じさせる佇まい。婚活中の友人たちが見たら放ってはおかないだろうと思ったとおり、新郎の友人たちと固まって話している子が何人か、ちらちらとこちらに視線を送ってきている。
「あ、きみ。なにか拭くものを持ってきてくれないか。タオルがいいな」
男性はハンカチを差し出そうとしてそれでは足りないと思ったのか、近くのウエイターを呼び止めた。
「かしこまりました」
ウエイターはすぐにホテルの名前が入ったタオルを持ってきてくれた。陽菜は持っていたグラスと皿をテーブルに置き、それを使って自分にかかった白ワインをワンピースが皺にならないよう上からポンポンと叩いて拭いた。
「ありがとうございます、助かりました」
まだ湿ってはいるが、拭く前までよりは全然ましだ。
「明日にでもすぐクリーニングに出せば、染みにはならないと思うよ」
「そうします」
なんて答えたが、古着屋で買った五千円のワンピースなんてクリーニングに出すほどのものでもない。家に帰ったら白ワインのかかった部分に重曹をふりかけて、熱湯を注いで揉み洗いすれば十分だ。
「……大丈夫?」
男性がもう一度聞いてきた。
「はい、色の濃いワンピースを着て来てよかったです」
「そうじゃなくて」
男性はまだ気遣うような顔をしている。
「ワインがかかる前から元気なさそうにしてたから、具合でも悪いのかなって」
「ああ……」
見られていたのか。
たしかに、楽しそうに談笑している輪から外れたところでひとりため息をついていたら、そう思えるかもしれない。でもこのにぎやかな会場の片隅でひっそり立っていた存在感の薄い自分に気づいてくれるなんて、優しいひとだ。
「ご心配おかけしてしまってすみません。でも大丈夫です」
陽菜は男性の顔を見上げて笑いかけた。
「美味しそうなお料理がこんなにたくさん残ってしまっているのがもったいないなと思っていただけなんです」
「ああ、たしかに」
男性は難しい顔をして頷いた。
「フードロスが社会問題になっているのに、宴会料理は変わりませんね。余るくらい用意しないと安く済ませようとしているように思われてしまうからなんでしょうけど」
「そう、ですね」
陽菜は目を泳がせた。
社会問題なんて立派なことは全然考えていなかったからだ。いまの自分の満腹具合と明日からの節約生活のことしか頭になかった。
ただでさえギリギリの生活を送っているのに、来月にはいま借りているアパートの更新があり、更新料が家賃の一か月分かかるのだ。どうやりくりするか考えるだけで頭が痛い。
「……タッパー持ってくればよかったなあ」
「え?」
「あ、なんでもないです」
「タッパーですか。それはいいかも」
ごまかしたが、ばっちり聞こえていたらしい。恥ずかしい。
男性はニコッと笑った。人懐っこそうな笑顔だった。
「持ち帰り用の容器を用意している飲食店も増えてきてますよね」
どうやらエコな方面に解釈してくれたようだ。
「ところで……」
男性がさりげなく宴会場のなかを見回した。それから陽菜の耳元に顔を近づけ、声のボリュームとトーンを落としてささやく。
「よかったら、一緒に抜け出さない?」
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