【マンガシナリオ】冬に咲くすみれ
第7話『早く大人になりたい』
柱:穂乃の部屋・夕方
穂乃はこたつに座りスマホを見つめている。
画面には、送信したばかりのメッセージ。
〈2月から実習が始まるので、あまり会えないかもしれないです。ごめんなさい〉
穂乃(モノローグ)『熱が治っても、あの日抱えた不安な心だけはそのまま残り続けていた』
カリカリとペンを動かしながら、ため息をついてまたすぐにスマホを見る。
穂乃「ああ〜〜」※こたつに潜り、顔を隠す。
穂乃(心の声)「本当は会いたいのに会うのが怖い。こんな風にモヤモヤした状態のままじゃ、会っても煌斗さんをきっと困らせちゃう」
柱:穂乃の部屋・夜
こたつで横になりうとうととしていたところにスマホが震える。
穂乃「はい……」※寝ぼけながら
煌斗「ごめん、寝てた?」
煌斗の声に穂乃はハッとして目を覚ます。
穂乃「あっ、すみません。お疲れ様です」
起き上がって時間を確認する。
穂乃(心の声)「もう19時。仕事終わったんだ……」
煌斗「大丈夫?無理してない?」※迷いながら探るように
穂乃「大丈夫ですよ!もう熱も下がりましたし!」※空元気が分かるくらいのハキハキさ
煌斗「……そう」※誤魔化されているのが分かり、深追いできない様子
煌斗「2月から忙しいみたいだね」
眠る前に送ったメッセージを思い出す。ちょっと罪悪感で顔をくもらせる。
穂乃「あ……そうなんです。ごめんなさい、あの、実習に集中したくて」
穂乃(心の声)「それは嘘じゃない。大丈夫……」
煌斗「うん、寂しいけど。応援してるよ」※優しい声に穂乃の目が潤む
穂乃(心の声)「会いたい。抱きしめてほしい。何も考えずに安心したい。なのに、どうしてこんなに不安になるの……?」
穂乃「ありがとうございます」※声が震えて、唇を噛む。
少しの間が空いて、煌斗が訊ねる。
煌斗「やっぱり無理してるよね。どうしたの?」
穂乃「違うんです……あの……」
穂乃(心の声)「言えるわけがない。だって煌斗さんはこれでもかと言うほど優しくて、十分過ぎるほどに大切にしてくれている。なのに、不安に思うのは、きっと私自身の問題だから」
穂乃は唇を噛んで、本音を隠すための気持ちを口にする。
穂乃「実習まですごく緊張してて……ちょっといっぱいいっぱいなんです」
※絞り出した言い訳。俯いている。
煌斗「本当にそれだけ?」※嘘をついているようで苦しくなって胸を抑える。
穂乃「はい。実習が終わったら……2月中旬には元気に戻りますから!」
無理につくった明るい声。
煌斗「わかった。でも、本当に無理しないでね。何かあるなら聞くから」
泣きそうになってしまう。
穂乃(心の声)「きっと、誤魔化していることはバレている」
穂乃「ごめんなさい。電話ありがとうございます」※泣いてしまいそうなのを隠すように強引に電話を切る。
涙を浮かべて再びこたつに潜る。
穂乃(心の声)「こんな風に下手くそに誤魔化して、自分の嫌いなところが増えるたびに、また「どうして私なんかを選んだの?」という不安が大きくなる」
穂乃(モノローグ)『考えても考えても、私には煌斗さんに選んでもらえるような魅力は何ひとつ、見つからなかった』
柱:介護老人保健施設「つむぎ園」・正面玄関・2月初旬・朝
刺すような冷たい風の中、施設の入り口で深呼吸をする穂乃。
自動ドアの横に、可愛らしい日本語書体の看板がある。
穂乃(モノローグ)『おばあちゃんが入所していたこの施設にこんな形でまたくることになるとは思っていなかった』
冷たい手を温めるように手袋のまま両手を組む。
自動ドアが開く。
エントランスに飾られたたくさんの折り紙と「つむぎ園へようこそ」という可愛らしい装飾。その先に開けたロビーがあり、職員さんと車椅子に乗った患者さんが数人いる。
穂乃は少し固まる。
穂乃の瞳越しに、過去の景色を浮かべる。
中学生の頃。制服のまま、ここに通った放課後。
エントランスのソファに座って「ほの、寒かったでしょ」とカーディガンを羽織らせてくれたおばあちゃんの姿。
穂乃(心の声)「懐かしくて……苦しい」
※おばあちゃんの最期を思い出しかけて手のひらを握りしめる
柱:施設内・スタッフルーム前
穂乃「おはようございます!」※深呼吸をした後、ハキハキと気合いを入れて
5名ほどいたスタッフが振り返る。
穂乃「本日より、実習でお世話になります。桜庭穂乃です。よろしくお願いいたします」
※緊張した面持ちで深く礼。
山崎「おはようございます!元気がよくていいね!スタッフ長の山崎です」
※明るい50代くらいの女性。細身だけど筋肉質で背が高い。
穂乃「よろしくお願いします!」
山崎は微笑んで一人の男性を手招きする。
白いポロシャツをきた爽やかに前髪をあげた男性が駆け足でくる。
山崎「石田さん。こっちこっち。桜庭さんの指導をお願いする石田さんです」
石田「はじめまして。石田です……ってやっぱり穂乃ちゃんだよね?」
親しげな表情と、過去の光景が重なる。
穂乃「石田さん……!」※ぱあっと緊張が溶けた顔
おばあちゃんを担当してくれていた、優しいお兄さん。
おばあちゃんと楽しそうに話す姿。
石田「久しぶりだね。すみれさんにそっくり」※懐かしむように目を細める。
穂乃「本当にその節は、お世話になりました」
石田「こちらこそです」※微笑んでお辞儀を返す
石田「僕、聞きましたよね!?やっぱ桜庭さんのお孫さんで合ってたじゃないっすか。なんで誤魔化したんすか!」※スタッフ長を振り返って
山崎「なによ、その方が感動的じゃない〜」※カラッとした笑い声にスタッフルームから笑いが上がる
穂乃(心の声)「夏の実習現場は、少しピリピリしてた。ここは雰囲気良さそうでちょっと安心」
山崎「すみれさん、よく話してくれてたよ。うちの孫は本当に優しい子なんだって。期待してるからね」
明るくも優しい笑顔に涙がこぼれそうになり、ぎゅっと指を握りしめる。
穂乃「祖母もつむぎ園はいいところだって口癖のように言ってました。皆さんみたいになりたいって本気で思ってます。ご指導よろしくお願いします!」※先ほどのかちこちの状態とは違うまっすぐな気持ち
山崎と石田、奥のスタッフは顔を見合わせて笑う。
石田「うん。頑張ろう。辛いときは言っていいし、わからないことはすぐに相談して」
穂乃(モノローグ)『正直足を踏み入れるまで怖かった。だけど、スタッフさんの雰囲気だけで、頑張れる気がした。思い出の場所で、おばあちゃんも見守ってくれているような、不思議な温かい気持ちに包まれる』
石田「じゃあ早速施設内を案内するから着替えておいで。今日頑張って覚えること。午後は利用者さんたちとの交流にしようかな」※話しながら制服を渡される。
穂乃「はい!お願いします!」
柱:介護老人保健施設「つむぎ園」・数日後
デイルームでは利用者さんたちの笑い声が響いている。
石田「桜庭さん、今日はレクリエーションに一緒に参加しよう。トランプ、好きだって言ってたよね?」
穂乃「あ、はい!好きです!」
穂乃(モノローグ)『実習は毎日本当に充実していた』
テーブルを囲む数人の利用者さんたち。
穂乃は手の震えるおばあさんにも笑顔で寄り添い、ゆっくりとルールを教える。
明美「穂乃ちゃん穂乃ちゃん、教えて頂戴」
穂乃「明美さん合ってますよ!この中から選んで……うん!すごいです!ほら、勝ってますよ!」
明美「やだあ、穂乃ちゃん褒め上手ねえ」
利用者の明美さんが声を出して笑う。
穂乃も嬉しそうに笑う。石田は少し離れてその様子を見守る。
石田「さすが穂乃ちゃん。変わらないね」※レクリエーションが終わって片付けをしながら
穂乃「え?あ、いえ……!楽しみすぎました……」
穂乃(心の声)「子供っぽいところを見せてしまったかもしれない」※俯く
石田は微笑みながらまっすぐに穂乃を見る。
石田「桜庭さん。介護職に一番大切なことってなんだと思う?」
穂乃「一番……。利用者さんを理解すること、ですか?あとやっぱり技術も必要ですよね……」※考え込む穂乃
石田「理解することも技術ももちろん大事。でも、何より一番は、信頼関係」
穂乃「信頼関係……?」
石田「食事とかお着替えとか、人間が生活する核みたいなところに触れる職業だよね。利用者さんとの距離もものすごく近い。だからこそ、信用できない人に触れられたくないって思いは絶対についてくるんだ」
穂乃「確かに」※メモを出す
石田「うん。だから、今みたいなレクリエーションの時間ってすごく大事。それに、一緒に楽しむことはすっごくいいこと。今日の桜庭さんは120点でした」※にっこり
穂乃「ありがとうございます!」※素直に嬉しそうに
柱:穂乃の自室・夜
机の上には学校で配られたレポート用紙の束。
びっしりと書き込んだノート。
目はしょぼしょぼ、時計は夜中2時を指している。
穂乃(モノローグ)『石田さんはすごい。当時は温かくて優しいお兄さんってただ単純に思っていたけど、実習生として見る石田さんは細部まで優しさが詰まっていて、一つ一つのケアに意味があって、それが蓄積されてあの優しさができているとわかった』
利用者さんと会話する石田さんの後姿を穂乃が見つめているカット
穂乃(心の声)「学ぶことばかりだ……」
穂乃『今日もレポートは終わらないし、明日も早い。でも、充実していて学ぶことが楽しい』※ペンが勢いよく走り続ける様子
スマホが光る。煌斗の名前。
一瞬手が止まるけど、穂乃は、画面をそっと下向きに伏せる。
穂乃(モノローグ)『……今は、気持ちを乱したくない。せっかく前向きになれたときだから』
レポートの続きに向き直る。
柱:入浴介助前・浴室前の廊下(数日後)
温かい湯気がもくもくと上がる。
慣れない雰囲気に、穂乃の背中は緊張で強張る。
穂乃(心の声)「前回はやらなかったから、本当に初めてだ……」
穂乃「失礼します。えっと、タオルの準備は……」
石田「焦らなくて大丈夫」
石田の声はいつも柔らかく、穏やか。
手順をひとつずつ穏やかに教えてくれる。
利用者さんの衣服をゆっくり脱がすとき、石田は穂乃の手の位置、目線を確認しさりげなくサポートしてくれる。
石田「そうそう。明美さん痛くないですか?」
明美「うん大丈夫よ。穂乃ちゃんすっごく上手」
穂乃「よかったです」
指先は緊張で汗ばむ。
穂乃(モノローグ)『明美さんと石田さんが応援してくれて、私は無事に入浴介助を終えた』
石田「うん、桜庭さんは丁寧だよ。相手を大事にしてるのが伝わる」
穂乃「ありがとうございます!」
穂乃(モノローグ)『終わった時の石田さんの一言が、やりがいを刺激し、胸がいっぱいで泣きそうになってしまった』
柱:街中・VIOLA前・夕方
つむぎ園からの帰り道。穂乃は鼻歌を歌いながら街中を歩く。
穂乃(モノローグ)『入浴介助が上手くいき、その日の私は楽しい気分だった』
駅前の通りで、VIOLAの黒いドアが見える。
あの日と同じ、わくわくする扉が重なる。
煌斗さんと出会った日のドキドキするけど楽しいあの感じが思い出される。
穂乃(心の声)「ずっと不安になるのが怖くて避けていた。でも、久しぶりに声が聞きたい」
ドアの木枠にそっと触れそうになり、やめる。
穂乃(心の声)『でも、いるとは限らないし。連絡も返していないのに突然こんなとこで会ったら不思議に思うよね』※思いとどまってくるりと踵を返す。
煌斗「穂乃ちゃん?」
振り返るとスーツ姿の煌斗が、驚いたように目を丸くしている。
肩には薄い雪が積もっている。
気まずさに襲われ、挙動不審に視線を逸らす穂乃。
穂乃「私、えっと、その……ただ前を通っただけで」
うろたえる穂乃に、煌斗はふっと優しい笑みを浮かべる。
煌斗「今日は余裕あるの?」
きっと疑問も色々あるはずなのに、細かいことは聞かず受け止める煌斗。
穂乃「はい。ちょっとだけ」
穂乃は、決まりが悪そうに小さく頷く。
煌斗「飲んでいこうよ」
穂乃(モノローグ)『いつも通りに誘ってくれる温かさを、私は断れるわけがなかった』
柱:Bar VIOLA・カウンター席・夜
店内は客はまばら。
瀬良と玲奈がいつも通り迎え入れてくれてカウンターに座る。
二人の前には、穂乃のカシスオレンジと、煌斗のハイボール。
煌斗「じゃあ、久しぶり」※グラスを傾けながら
穂乃「お疲れ様です」※慌ててグラスを持つ
グラスの縁が軽く当たり、乾いた音が響く。
穂乃(モノローグ)『ずっと避けていた。会いたいのに会いたくなくて。いま、目の前にしてもやっぱり、どうしたらいいかわからない。いつも通りが、思い出せない』
硬い笑みを浮かべる穂乃。
煌斗はそれを見て、少し視線を鋭くするが、気づいていないふりをして柔らかく返す。
煌斗「実習、どう?忙しいだろうけど頑張ってる?」
穂乃「はい。あまり連絡できなくて申し訳ないです」
穂乃(心の声)「勝手に責められているような気持ちになるのは、きっと後ろめたい気持ちがあるからだよね」
煌斗「全然大丈夫だよ。無理してないかなって心配だっただけ」
穂乃「それは全然!毎日勉強になることばかりで楽しいです」
石田さんに褒められたことが思い出される。
ひとつずつだけどできることも増えている。
穂乃(心の声)「大丈夫、私は成長してる。煌斗さんと並べるようになるんだ」※自分を追い込んでいるような表情
煌斗は深く追及せず、ハイボールをごくりと飲む。
奥から瀬良がやって来る。
瀬良「神谷。この間の件は大丈夫だった?」
穂乃にも軽く会釈をしながら話しかける。
煌斗「ん?ああ、佐伯さんに聞いたのか」※苦笑い
瀬良「うん。珍しく荒れて飲んでいったから」
玲奈「美人が勢いよく飲む姿ってかっこいいっすよね」※茶々を入れるように
瀬良と煌斗も笑う。
仕事の話を始めた三人。穂乃はグラスに両手を添えながら耳を傾ける。
瀬良「佐伯さん、かなり頭抱えていたよ」
煌斗「まあ、直前で発注書の書き間違えが発覚したわけだから、さすがにヒリヒリしたよね」※思い出して苦笑い
玲奈「えー、それって間に合うもんなんですか?」
煌斗「全然無理。俺と佐伯さんで頭下げて、輸送ルートも差し替えて、在庫センターも深夜組に切り替えて……それでなんとかギリギリ間に合ったくらいだよ……」
穂乃(モノローグ)『想像がつかない話ばかりだった。それでも責任が伴う仕事の大変さが垣間見えて、自分との差に胸をしめつけていた』
穂乃(心の声)「煌斗さんがすごい人なんだって改めて思い知らされる。私はその新人さんよりもさらに下の実習生で、それでもいっぱいいっぱいなのに。感じていた成長が豆粒みたい」
※引き上げていた口角が下がっていく様子
瀬良「はは。佐伯さんが神谷がいてくれてよかったっていう理由がわかる」
煌斗「いや恐れ多いよ。あの人は本当に仕事ができるから……」
穂乃の笑顔が完全に消える。
穂乃(モノローグ)『煌斗さんはただ事実を述べているだけ。けれど、自分との差が大きすぎて苦しくなる』
穂乃(心の声)「佐伯さんはきっと隣に並んでも違和感のない女性なんだろう。仕事ができて、頼られて。煌斗さんと対等に話すことができる人。比べたって仕方ないのに」
手元のグラスを見つめる。液面が不安定に揺れる。
煌斗「穂乃ちゃん?ごめん、仕事の話分からないよね」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
穂乃「いえ、尊敬します」
笑おうとするけど、目元の影は隠せない。
煌斗は、その違和感を敏感に受け取る。
煌斗「実習、前より慣れてきた?夏のリベンジ、できそう?」
話を戻し、こちらに向き直る煌斗。
穂乃(モノローグ)『本当は、石田さんに褒められたことも、前より丁寧にケアできた自分も。ぜんぶ話して、煌斗さんに褒めてほしいと思っていた』
穂乃(心の声)「言えない。ずっと先で生きている煌斗さんにこんなちっぽけな成長を伝えることが恥ずかしい」
穂乃「私は、まだまだ……。もっと頑張らないとです」
穂乃(モノローグ)『私はその日、自分の頑張りを否定した』
ぽたり、と涙が零れた。
穂乃「っ……」
慌てて指先で拭おうとしたところを、煌斗がそっとその手を掴む。
煌斗「辛いこと、あった?」※優しい声。心配そうな表情。
穂乃は悔しくてさらに表情を歪める。
穂乃(心の声)「辛いことなんてない。なのに、煌斗さんと比べたら……私はちっぽけで、情けなくて……自信がどんどんなくなるだけ……」
涙が止まらない。泣きたくないのに、涙が溢れる。
穂乃「……ごめんなさい……帰ります」
震える声でそう告げ、テーブルに代金を置き、逃げるように席を立った。
柱:Bar VIOLA・店の外
煌斗「穂乃ちゃん、待って——」
後ろから駆けてくる足音。煌斗が手を掴んだ。
穂乃「大丈夫ですから」俯く横顔。唇を噛み締めて震えている。
煌斗はそのまま強く、穂乃を胸に抱き寄せた。
煌斗「大丈夫なわけ、ないだろ」
ずっと優しかった声が、初めて強くなる。
背中に回された腕は温かくて、涙が止まらなくなる。
穂乃(心の声)「温かい、安心する。煌斗さんが心から心配してくれているのが分かる」
嬉しいと思う自分が情けなくて、涙がぽろぽろと大粒で落ちていく。
穂乃(モノローグ)『それでも、人間的な差を感じるたびに、隣にいるのが苦しくなって、この腕の温かさから逃げ出したくなるんだ』
自分で自分を追い詰めるように、苦しそうに顔をしかめる。
穂乃「離して、ください……!」※両手で煌斗の胸をぐっと押す。
煌斗「……っ」※驚いたように腕が離れる。
穂乃は涙をぼろぼろとこぼしながら叫ぶ。
穂乃「私は……っ、そんなふうに、煌斗さんに優しくしてもらう資格がないんです……!」
煌斗「穂乃ちゃん……?」※驚きと戸惑い
穂乃「仕事ができて、大人で、いつも優しくて。そんな煌斗さんと比べたら私なんて全然だめで、煌斗さんの周りにいる人たちの方が絶対に釣り合ってるのに。
どうして、こんな私なんかに優しくしてくれるのかわからないっ」
子供みたいに感情のままにぶつける。
煌斗「穂乃ちゃん俺は——」※穂乃に手を伸ばす
穂乃「煌斗さんの隣にいると……自分がどれだけ未熟か思い知らされるみたいで、苦しいんです」
振り絞った一言。言い終えた瞬間、穂乃は走り出す。
煌斗は、言葉の衝撃に打たれて立ち尽くす。
煌斗(モノローグ)『理由ならある。君じゃなきゃダメな理由が。だけど、いま、その背中を止める言葉が見つからない』
雪の降る夜道に立ち尽くしたまま、ただその影が見えなくなるまで動けなかった。
第7話終
穂乃はこたつに座りスマホを見つめている。
画面には、送信したばかりのメッセージ。
〈2月から実習が始まるので、あまり会えないかもしれないです。ごめんなさい〉
穂乃(モノローグ)『熱が治っても、あの日抱えた不安な心だけはそのまま残り続けていた』
カリカリとペンを動かしながら、ため息をついてまたすぐにスマホを見る。
穂乃「ああ〜〜」※こたつに潜り、顔を隠す。
穂乃(心の声)「本当は会いたいのに会うのが怖い。こんな風にモヤモヤした状態のままじゃ、会っても煌斗さんをきっと困らせちゃう」
柱:穂乃の部屋・夜
こたつで横になりうとうととしていたところにスマホが震える。
穂乃「はい……」※寝ぼけながら
煌斗「ごめん、寝てた?」
煌斗の声に穂乃はハッとして目を覚ます。
穂乃「あっ、すみません。お疲れ様です」
起き上がって時間を確認する。
穂乃(心の声)「もう19時。仕事終わったんだ……」
煌斗「大丈夫?無理してない?」※迷いながら探るように
穂乃「大丈夫ですよ!もう熱も下がりましたし!」※空元気が分かるくらいのハキハキさ
煌斗「……そう」※誤魔化されているのが分かり、深追いできない様子
煌斗「2月から忙しいみたいだね」
眠る前に送ったメッセージを思い出す。ちょっと罪悪感で顔をくもらせる。
穂乃「あ……そうなんです。ごめんなさい、あの、実習に集中したくて」
穂乃(心の声)「それは嘘じゃない。大丈夫……」
煌斗「うん、寂しいけど。応援してるよ」※優しい声に穂乃の目が潤む
穂乃(心の声)「会いたい。抱きしめてほしい。何も考えずに安心したい。なのに、どうしてこんなに不安になるの……?」
穂乃「ありがとうございます」※声が震えて、唇を噛む。
少しの間が空いて、煌斗が訊ねる。
煌斗「やっぱり無理してるよね。どうしたの?」
穂乃「違うんです……あの……」
穂乃(心の声)「言えるわけがない。だって煌斗さんはこれでもかと言うほど優しくて、十分過ぎるほどに大切にしてくれている。なのに、不安に思うのは、きっと私自身の問題だから」
穂乃は唇を噛んで、本音を隠すための気持ちを口にする。
穂乃「実習まですごく緊張してて……ちょっといっぱいいっぱいなんです」
※絞り出した言い訳。俯いている。
煌斗「本当にそれだけ?」※嘘をついているようで苦しくなって胸を抑える。
穂乃「はい。実習が終わったら……2月中旬には元気に戻りますから!」
無理につくった明るい声。
煌斗「わかった。でも、本当に無理しないでね。何かあるなら聞くから」
泣きそうになってしまう。
穂乃(心の声)「きっと、誤魔化していることはバレている」
穂乃「ごめんなさい。電話ありがとうございます」※泣いてしまいそうなのを隠すように強引に電話を切る。
涙を浮かべて再びこたつに潜る。
穂乃(心の声)「こんな風に下手くそに誤魔化して、自分の嫌いなところが増えるたびに、また「どうして私なんかを選んだの?」という不安が大きくなる」
穂乃(モノローグ)『考えても考えても、私には煌斗さんに選んでもらえるような魅力は何ひとつ、見つからなかった』
柱:介護老人保健施設「つむぎ園」・正面玄関・2月初旬・朝
刺すような冷たい風の中、施設の入り口で深呼吸をする穂乃。
自動ドアの横に、可愛らしい日本語書体の看板がある。
穂乃(モノローグ)『おばあちゃんが入所していたこの施設にこんな形でまたくることになるとは思っていなかった』
冷たい手を温めるように手袋のまま両手を組む。
自動ドアが開く。
エントランスに飾られたたくさんの折り紙と「つむぎ園へようこそ」という可愛らしい装飾。その先に開けたロビーがあり、職員さんと車椅子に乗った患者さんが数人いる。
穂乃は少し固まる。
穂乃の瞳越しに、過去の景色を浮かべる。
中学生の頃。制服のまま、ここに通った放課後。
エントランスのソファに座って「ほの、寒かったでしょ」とカーディガンを羽織らせてくれたおばあちゃんの姿。
穂乃(心の声)「懐かしくて……苦しい」
※おばあちゃんの最期を思い出しかけて手のひらを握りしめる
柱:施設内・スタッフルーム前
穂乃「おはようございます!」※深呼吸をした後、ハキハキと気合いを入れて
5名ほどいたスタッフが振り返る。
穂乃「本日より、実習でお世話になります。桜庭穂乃です。よろしくお願いいたします」
※緊張した面持ちで深く礼。
山崎「おはようございます!元気がよくていいね!スタッフ長の山崎です」
※明るい50代くらいの女性。細身だけど筋肉質で背が高い。
穂乃「よろしくお願いします!」
山崎は微笑んで一人の男性を手招きする。
白いポロシャツをきた爽やかに前髪をあげた男性が駆け足でくる。
山崎「石田さん。こっちこっち。桜庭さんの指導をお願いする石田さんです」
石田「はじめまして。石田です……ってやっぱり穂乃ちゃんだよね?」
親しげな表情と、過去の光景が重なる。
穂乃「石田さん……!」※ぱあっと緊張が溶けた顔
おばあちゃんを担当してくれていた、優しいお兄さん。
おばあちゃんと楽しそうに話す姿。
石田「久しぶりだね。すみれさんにそっくり」※懐かしむように目を細める。
穂乃「本当にその節は、お世話になりました」
石田「こちらこそです」※微笑んでお辞儀を返す
石田「僕、聞きましたよね!?やっぱ桜庭さんのお孫さんで合ってたじゃないっすか。なんで誤魔化したんすか!」※スタッフ長を振り返って
山崎「なによ、その方が感動的じゃない〜」※カラッとした笑い声にスタッフルームから笑いが上がる
穂乃(心の声)「夏の実習現場は、少しピリピリしてた。ここは雰囲気良さそうでちょっと安心」
山崎「すみれさん、よく話してくれてたよ。うちの孫は本当に優しい子なんだって。期待してるからね」
明るくも優しい笑顔に涙がこぼれそうになり、ぎゅっと指を握りしめる。
穂乃「祖母もつむぎ園はいいところだって口癖のように言ってました。皆さんみたいになりたいって本気で思ってます。ご指導よろしくお願いします!」※先ほどのかちこちの状態とは違うまっすぐな気持ち
山崎と石田、奥のスタッフは顔を見合わせて笑う。
石田「うん。頑張ろう。辛いときは言っていいし、わからないことはすぐに相談して」
穂乃(モノローグ)『正直足を踏み入れるまで怖かった。だけど、スタッフさんの雰囲気だけで、頑張れる気がした。思い出の場所で、おばあちゃんも見守ってくれているような、不思議な温かい気持ちに包まれる』
石田「じゃあ早速施設内を案内するから着替えておいで。今日頑張って覚えること。午後は利用者さんたちとの交流にしようかな」※話しながら制服を渡される。
穂乃「はい!お願いします!」
柱:介護老人保健施設「つむぎ園」・数日後
デイルームでは利用者さんたちの笑い声が響いている。
石田「桜庭さん、今日はレクリエーションに一緒に参加しよう。トランプ、好きだって言ってたよね?」
穂乃「あ、はい!好きです!」
穂乃(モノローグ)『実習は毎日本当に充実していた』
テーブルを囲む数人の利用者さんたち。
穂乃は手の震えるおばあさんにも笑顔で寄り添い、ゆっくりとルールを教える。
明美「穂乃ちゃん穂乃ちゃん、教えて頂戴」
穂乃「明美さん合ってますよ!この中から選んで……うん!すごいです!ほら、勝ってますよ!」
明美「やだあ、穂乃ちゃん褒め上手ねえ」
利用者の明美さんが声を出して笑う。
穂乃も嬉しそうに笑う。石田は少し離れてその様子を見守る。
石田「さすが穂乃ちゃん。変わらないね」※レクリエーションが終わって片付けをしながら
穂乃「え?あ、いえ……!楽しみすぎました……」
穂乃(心の声)「子供っぽいところを見せてしまったかもしれない」※俯く
石田は微笑みながらまっすぐに穂乃を見る。
石田「桜庭さん。介護職に一番大切なことってなんだと思う?」
穂乃「一番……。利用者さんを理解すること、ですか?あとやっぱり技術も必要ですよね……」※考え込む穂乃
石田「理解することも技術ももちろん大事。でも、何より一番は、信頼関係」
穂乃「信頼関係……?」
石田「食事とかお着替えとか、人間が生活する核みたいなところに触れる職業だよね。利用者さんとの距離もものすごく近い。だからこそ、信用できない人に触れられたくないって思いは絶対についてくるんだ」
穂乃「確かに」※メモを出す
石田「うん。だから、今みたいなレクリエーションの時間ってすごく大事。それに、一緒に楽しむことはすっごくいいこと。今日の桜庭さんは120点でした」※にっこり
穂乃「ありがとうございます!」※素直に嬉しそうに
柱:穂乃の自室・夜
机の上には学校で配られたレポート用紙の束。
びっしりと書き込んだノート。
目はしょぼしょぼ、時計は夜中2時を指している。
穂乃(モノローグ)『石田さんはすごい。当時は温かくて優しいお兄さんってただ単純に思っていたけど、実習生として見る石田さんは細部まで優しさが詰まっていて、一つ一つのケアに意味があって、それが蓄積されてあの優しさができているとわかった』
利用者さんと会話する石田さんの後姿を穂乃が見つめているカット
穂乃(心の声)「学ぶことばかりだ……」
穂乃『今日もレポートは終わらないし、明日も早い。でも、充実していて学ぶことが楽しい』※ペンが勢いよく走り続ける様子
スマホが光る。煌斗の名前。
一瞬手が止まるけど、穂乃は、画面をそっと下向きに伏せる。
穂乃(モノローグ)『……今は、気持ちを乱したくない。せっかく前向きになれたときだから』
レポートの続きに向き直る。
柱:入浴介助前・浴室前の廊下(数日後)
温かい湯気がもくもくと上がる。
慣れない雰囲気に、穂乃の背中は緊張で強張る。
穂乃(心の声)「前回はやらなかったから、本当に初めてだ……」
穂乃「失礼します。えっと、タオルの準備は……」
石田「焦らなくて大丈夫」
石田の声はいつも柔らかく、穏やか。
手順をひとつずつ穏やかに教えてくれる。
利用者さんの衣服をゆっくり脱がすとき、石田は穂乃の手の位置、目線を確認しさりげなくサポートしてくれる。
石田「そうそう。明美さん痛くないですか?」
明美「うん大丈夫よ。穂乃ちゃんすっごく上手」
穂乃「よかったです」
指先は緊張で汗ばむ。
穂乃(モノローグ)『明美さんと石田さんが応援してくれて、私は無事に入浴介助を終えた』
石田「うん、桜庭さんは丁寧だよ。相手を大事にしてるのが伝わる」
穂乃「ありがとうございます!」
穂乃(モノローグ)『終わった時の石田さんの一言が、やりがいを刺激し、胸がいっぱいで泣きそうになってしまった』
柱:街中・VIOLA前・夕方
つむぎ園からの帰り道。穂乃は鼻歌を歌いながら街中を歩く。
穂乃(モノローグ)『入浴介助が上手くいき、その日の私は楽しい気分だった』
駅前の通りで、VIOLAの黒いドアが見える。
あの日と同じ、わくわくする扉が重なる。
煌斗さんと出会った日のドキドキするけど楽しいあの感じが思い出される。
穂乃(心の声)「ずっと不安になるのが怖くて避けていた。でも、久しぶりに声が聞きたい」
ドアの木枠にそっと触れそうになり、やめる。
穂乃(心の声)『でも、いるとは限らないし。連絡も返していないのに突然こんなとこで会ったら不思議に思うよね』※思いとどまってくるりと踵を返す。
煌斗「穂乃ちゃん?」
振り返るとスーツ姿の煌斗が、驚いたように目を丸くしている。
肩には薄い雪が積もっている。
気まずさに襲われ、挙動不審に視線を逸らす穂乃。
穂乃「私、えっと、その……ただ前を通っただけで」
うろたえる穂乃に、煌斗はふっと優しい笑みを浮かべる。
煌斗「今日は余裕あるの?」
きっと疑問も色々あるはずなのに、細かいことは聞かず受け止める煌斗。
穂乃「はい。ちょっとだけ」
穂乃は、決まりが悪そうに小さく頷く。
煌斗「飲んでいこうよ」
穂乃(モノローグ)『いつも通りに誘ってくれる温かさを、私は断れるわけがなかった』
柱:Bar VIOLA・カウンター席・夜
店内は客はまばら。
瀬良と玲奈がいつも通り迎え入れてくれてカウンターに座る。
二人の前には、穂乃のカシスオレンジと、煌斗のハイボール。
煌斗「じゃあ、久しぶり」※グラスを傾けながら
穂乃「お疲れ様です」※慌ててグラスを持つ
グラスの縁が軽く当たり、乾いた音が響く。
穂乃(モノローグ)『ずっと避けていた。会いたいのに会いたくなくて。いま、目の前にしてもやっぱり、どうしたらいいかわからない。いつも通りが、思い出せない』
硬い笑みを浮かべる穂乃。
煌斗はそれを見て、少し視線を鋭くするが、気づいていないふりをして柔らかく返す。
煌斗「実習、どう?忙しいだろうけど頑張ってる?」
穂乃「はい。あまり連絡できなくて申し訳ないです」
穂乃(心の声)「勝手に責められているような気持ちになるのは、きっと後ろめたい気持ちがあるからだよね」
煌斗「全然大丈夫だよ。無理してないかなって心配だっただけ」
穂乃「それは全然!毎日勉強になることばかりで楽しいです」
石田さんに褒められたことが思い出される。
ひとつずつだけどできることも増えている。
穂乃(心の声)「大丈夫、私は成長してる。煌斗さんと並べるようになるんだ」※自分を追い込んでいるような表情
煌斗は深く追及せず、ハイボールをごくりと飲む。
奥から瀬良がやって来る。
瀬良「神谷。この間の件は大丈夫だった?」
穂乃にも軽く会釈をしながら話しかける。
煌斗「ん?ああ、佐伯さんに聞いたのか」※苦笑い
瀬良「うん。珍しく荒れて飲んでいったから」
玲奈「美人が勢いよく飲む姿ってかっこいいっすよね」※茶々を入れるように
瀬良と煌斗も笑う。
仕事の話を始めた三人。穂乃はグラスに両手を添えながら耳を傾ける。
瀬良「佐伯さん、かなり頭抱えていたよ」
煌斗「まあ、直前で発注書の書き間違えが発覚したわけだから、さすがにヒリヒリしたよね」※思い出して苦笑い
玲奈「えー、それって間に合うもんなんですか?」
煌斗「全然無理。俺と佐伯さんで頭下げて、輸送ルートも差し替えて、在庫センターも深夜組に切り替えて……それでなんとかギリギリ間に合ったくらいだよ……」
穂乃(モノローグ)『想像がつかない話ばかりだった。それでも責任が伴う仕事の大変さが垣間見えて、自分との差に胸をしめつけていた』
穂乃(心の声)「煌斗さんがすごい人なんだって改めて思い知らされる。私はその新人さんよりもさらに下の実習生で、それでもいっぱいいっぱいなのに。感じていた成長が豆粒みたい」
※引き上げていた口角が下がっていく様子
瀬良「はは。佐伯さんが神谷がいてくれてよかったっていう理由がわかる」
煌斗「いや恐れ多いよ。あの人は本当に仕事ができるから……」
穂乃の笑顔が完全に消える。
穂乃(モノローグ)『煌斗さんはただ事実を述べているだけ。けれど、自分との差が大きすぎて苦しくなる』
穂乃(心の声)「佐伯さんはきっと隣に並んでも違和感のない女性なんだろう。仕事ができて、頼られて。煌斗さんと対等に話すことができる人。比べたって仕方ないのに」
手元のグラスを見つめる。液面が不安定に揺れる。
煌斗「穂乃ちゃん?ごめん、仕事の話分からないよね」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
穂乃「いえ、尊敬します」
笑おうとするけど、目元の影は隠せない。
煌斗は、その違和感を敏感に受け取る。
煌斗「実習、前より慣れてきた?夏のリベンジ、できそう?」
話を戻し、こちらに向き直る煌斗。
穂乃(モノローグ)『本当は、石田さんに褒められたことも、前より丁寧にケアできた自分も。ぜんぶ話して、煌斗さんに褒めてほしいと思っていた』
穂乃(心の声)「言えない。ずっと先で生きている煌斗さんにこんなちっぽけな成長を伝えることが恥ずかしい」
穂乃「私は、まだまだ……。もっと頑張らないとです」
穂乃(モノローグ)『私はその日、自分の頑張りを否定した』
ぽたり、と涙が零れた。
穂乃「っ……」
慌てて指先で拭おうとしたところを、煌斗がそっとその手を掴む。
煌斗「辛いこと、あった?」※優しい声。心配そうな表情。
穂乃は悔しくてさらに表情を歪める。
穂乃(心の声)「辛いことなんてない。なのに、煌斗さんと比べたら……私はちっぽけで、情けなくて……自信がどんどんなくなるだけ……」
涙が止まらない。泣きたくないのに、涙が溢れる。
穂乃「……ごめんなさい……帰ります」
震える声でそう告げ、テーブルに代金を置き、逃げるように席を立った。
柱:Bar VIOLA・店の外
煌斗「穂乃ちゃん、待って——」
後ろから駆けてくる足音。煌斗が手を掴んだ。
穂乃「大丈夫ですから」俯く横顔。唇を噛み締めて震えている。
煌斗はそのまま強く、穂乃を胸に抱き寄せた。
煌斗「大丈夫なわけ、ないだろ」
ずっと優しかった声が、初めて強くなる。
背中に回された腕は温かくて、涙が止まらなくなる。
穂乃(心の声)「温かい、安心する。煌斗さんが心から心配してくれているのが分かる」
嬉しいと思う自分が情けなくて、涙がぽろぽろと大粒で落ちていく。
穂乃(モノローグ)『それでも、人間的な差を感じるたびに、隣にいるのが苦しくなって、この腕の温かさから逃げ出したくなるんだ』
自分で自分を追い詰めるように、苦しそうに顔をしかめる。
穂乃「離して、ください……!」※両手で煌斗の胸をぐっと押す。
煌斗「……っ」※驚いたように腕が離れる。
穂乃は涙をぼろぼろとこぼしながら叫ぶ。
穂乃「私は……っ、そんなふうに、煌斗さんに優しくしてもらう資格がないんです……!」
煌斗「穂乃ちゃん……?」※驚きと戸惑い
穂乃「仕事ができて、大人で、いつも優しくて。そんな煌斗さんと比べたら私なんて全然だめで、煌斗さんの周りにいる人たちの方が絶対に釣り合ってるのに。
どうして、こんな私なんかに優しくしてくれるのかわからないっ」
子供みたいに感情のままにぶつける。
煌斗「穂乃ちゃん俺は——」※穂乃に手を伸ばす
穂乃「煌斗さんの隣にいると……自分がどれだけ未熟か思い知らされるみたいで、苦しいんです」
振り絞った一言。言い終えた瞬間、穂乃は走り出す。
煌斗は、言葉の衝撃に打たれて立ち尽くす。
煌斗(モノローグ)『理由ならある。君じゃなきゃダメな理由が。だけど、いま、その背中を止める言葉が見つからない』
雪の降る夜道に立ち尽くしたまま、ただその影が見えなくなるまで動けなかった。
第7話終