どうぞ、貴方がお望みの結末を。~死を偽装した才女と、彼女を搾取した人々の破滅の物語~
◇◇◇
うららかな春の日差しを受け、王立学園では卒業パーティが催されていた。
なごやかな雰囲気の中、卒業生たちはダンスや食事を楽しみ、万事順調に進んでいたが、事態は急転する。
この国の王太子ロラン・アルヴァレスが放った不穏なひと言が原因だ。
「クラリス・ベルモント。このまま己の罪を認めないというのなら、お前との婚約を破棄する!」
彼の言葉で、パーティ会場は水を打ったように静まり返る。
ロランに愚かなことをしている自覚はあった。
だが、学園にいる間ずっとクラリスにさげすまれてきた男爵令嬢のルイーズ・モレアがあまりにも哀れで、言わずにはいられなかったのだ。
だから、王立学園の卒業パーティの席でクラリスに婚約破棄を言い渡し、クラリスに反省を促そうと考えた。
成績優秀で常に高位貴族の子女たちに一目置かれているせいか、クラリスは自分より劣った者を見下す癖がある。
特にルイーズのように事情がある娘はいじめられやすいのだ。
ルイーズからクラリスにいじめられているとの訴えを聞いた時は驚いた。
ロランは当然ルイーズの件をクラリスに問いただしたが、彼女は身に覚えがないと言う。
それでもルイーズの訴えは続き、間に挟まれたロランは悩んだ。次第にルイーズの友人たちの証言が集まっていく。
クラリスを中心とした高位貴族たちがルイーズをいじめていることは、この学園では公然の秘密だと聞かされた。
そんな人間が将来の国母にふさわしいわけがない。
ロランはクラリスには猛省が必要だと思った。
しかし、ロランの意気込みに反して、クラリスはわずかに眉根を寄せただけだ。
「私の罪とはなんですか? ロラン殿下、私たちの婚約は王命です。本当に婚約破棄をしていいのですか?」
王命を盾に取るとは、やはりルイーズの言う通り、クラリスは計算高い。
「お前のような卑劣なものは、王太子妃としてふさわしくない」
「卑劣とはどうことでしょう?」
心底わからないという様子でクラリスが聞いてくるので、ロランは思わずかっとなる。
「とぼけるな。ルイーズから聞いたぞ。お前は学園でルイーズをさんざんいじめた。これには証人もいる。そのうえ、卒業パーティのために準備したドレスを破くなど許しがたい」
「私は誓って、そのようなことはしておりません。それにルイーズ様のドレスは美しく、破れてなどいないではないですか」
クラリスが銀色の髪を揺らし、微かに首を傾げ、困惑したように眉尻を下げる。とぼけているのか、それとも良心の呵責がないのかロランには判断がつかない。クラリスは銀色の髪と完璧な容姿を持ち、成績も常に首位で優秀だった。そのくせ陰ではルイーズのような身分の低い貴族をいじめている。
ロランはそんなクラリスのことを、いつしか嫌うようになっていた。
クラリスの紫色の瞳はガラス玉のようになんの感情も映さず、普段から心の内を見せない。それもまた不気味で苛立たしく感じる。
出会った頃はロランもクラリスを美しいと思った。
しかし、今のクラリスは、顔立ちは整っているものの陶器でできた人形のように表情がなく、冷めた目をしている。
それに比べてルイーズは赤茶色の髪を持ち、美しいハシバミ色の瞳をしていて、温かくやわらかな雰囲気だ。愛嬌があり、天真爛漫で彼女がそばにいるだけで癒される。
「違う。お前はルイーズの部屋に忍び込んで、ドレスを破いた。だから、私が急遽別のドレスを用意したのだ。このような振る舞いをする者を次期王太子妃として認められない」
クラリスは周りに注目される中で、静かにロランに尋ねてくる。
「そもそも私はモレア様のご自宅を存じません。それでどうやってドレスを破くのですか?」
「クラリス様、どうしてとぼけるのですか! ドレスは王子宮の私の部屋にあったんです。王子宮に自由に出入りできるのは、私以外にあなたしかいません。せっかく殿下からいただいた素敵なドレスだったのに……あんまりです」
ルイーズがわなわなと震えながら必死に訴えると、いままで固唾をのんで成り行きを見守っていた卒業生たちの間にざわめきが広がっていく。
「え? 王子宮にルイーズ様の部屋があるの?」
「どういうことだ? 婚約者はクラリス様だろう?」
「ルイーズ様が、すでに王子宮で暮らしているということなのかしら?」
「ドレスを贈ったということは、やはりふたりはそういう仲だったんだな」
卒業生たちの目が冷ややかなものに変わっていく気がして、ロランはこの展開に焦りを感じる。
ルイーズは王子宮に住んでいるわけではないが、日頃から出入りを許していた。そのため部屋を与えたことは確かだし、破かれたドレスはそこにあったものだ。
王子宮に出入りできる人間は決まっていた。
だから、ロランもルイーズの言う通り、クラリスが破いたものと思っていたし、目撃者もいる。
それなのにルイーズが不用意な発言をしたせいで流れが変わってしまった。王子宮にルイーズの部屋があることの方が騒がれている。
ロランは、まずルイーズを止めなければ思った。
「ルイーズやめないか! 王子宮などと口にするな。誤解を招くではないか」
「そんな、私は、事実を言ったまでです!」
ルイーズの悲痛な叫びが会場にきんと響く。その時初めて、クラリスの紫色の瞳が揺れた気がした。
静まり返った会場でクラリスが口を開く。
「……わかりました。おふたりはそのようなご関係なのですね。それと、王子宮の出入りというのなら使用人も可能ですが?」
クラリスが取り乱すことはなかったが、硬い表情で聞いてくる。
ルイーズの不用意な発言から潮目が変わり、明らかにロランの分が悪い。
ロランはただこの交渉をうまくまとめたかっただけだ。落としどころも決めていた。だから、そのためにクラリスの気持ちを揺さぶろうと最初に『婚約破棄』を宣言したのだ。
だが、当のクラリスは声を荒らげることもなく落ち着いていて、淡々としている。
それどころか、ルイーズの発言で周りの者たちはロランの不貞を疑いはじめた。
しかし、ここで黙ってしまったら、ロランの負けだ。なんとしてもルイーズを狡猾にいじめるクラリスを懲らしめたい。
ルイーズはロランにとってなによりも大切な人なのだから。
「お前が私の婚約者だということをかさに着て、学園で長い期間に渡りルイーズを執拗にいじめていたのは知っている。その行為は次期王太子妃としてふさわしくない!」
「いじめた覚えはありません」
凛としたたたずまいで答えるクラリスを前にして、ロランはひるみそうになる。
だが、どうあっても、ここで彼女のおごりを突き崩したい。
そうしなければ、今後王宮でのルイーズの立場が悪くなってしまう。
「どうして嘘ばかりつく? お前の顔など見たくない。私の前から消えろ。いや、この国から出ていけ!」
うろたえたロランは、言うつもりのない言葉まで叫んでいだ。
この国に居場所がないとわかればクラリスも慌てるかと、思わず口走ってしまった。
だが、ロランがそう叫んだ瞬間、クラリスの口角がゆっくりと上がる。
彼女がほほ笑んだのだとわかった。
「ロラン殿下、ご下命賜りました」
クラリスは優美なカーテシーをする。
硬質な光を宿すクラリスの紫の瞳は澄み切っていて、なんの感情も読み取れない。
ロランは、ここまで言っても縋ってこないクラリスを見て動揺する。
(いったいどういうつもりだ? クラリスは十一歳の頃からお妃教育に多くの時間を費やしてきたというのに。王太子の婚約者という立場は、それほど簡単に手放せるものなのか? 将来国母となるのだぞ? 高位貴族の娘なら誰もが望む憧れの地位だ)
「クラリス、この先、結婚相手の条件が悪くなるぞ。お前がルイーズに、今ここで跪いて謝るのなら、許してやろう。なんならルイーズの補佐として雇ってもいい」
できるならクラリスを正妃ではなく側室に迎えよう考えていた。もしベルモント家が強硬に反対するようなら、クラリスをお飾りの正妃として、愛するルイーズを側室にしてもいい。
なぜなら、ロランはベルモント家の後ろ盾が必要だと常々王妃から言い聞かされていたからだ。モレア男爵家ではロランの後ろ盾にならない。
ロランは自分の王太子としての立場も守りたかったし、愛するルイーズも守りたかった。
そのためにロランは強硬手段に出たのだ。
クラリスは次期王太子妃として、在学中にロランの補助として執務を手伝っていた。彼女の事務処理能力は抜きん出ていて、すぐに王宮の優秀な官吏たちの信頼を得る。
王宮内にクラリスの取り巻きのようなものができ、官吏たちに優秀だとちやほやされて彼女はここまで増長してしまったのだ。
クラリスには、王太子であるロランを敬う気がまるでない。
これではどちらが王太子かわかったものではない。
「ロラン様! それは嫌です。モレア家は今でこそ男爵家ですが、もとは侯爵家です。私に補佐などいりません!」
目に涙をためて訴えるルイーズを見て、ロランの胸は痛む。
モレア家は、ルイーズの父の失策のせいで侯爵家から男爵家に降爵させられたのだ。
本来ならクラリスではなく、ルイーズがロランの婚約者となっていたはずだった。なぜなら、ふたりは幼い頃からお互いを思い合っていたのだから。
ルイーズが男爵領にこもり離れた時期はあったが、学園で再び出会い、ふたりの思いは再燃した。
世間から見れば、ロランの浮気かもしれない。
だがロランとルイーズからすれば、クラリスこそが途中からふたりの間に入ってきた邪魔者だ。
「お妃教育は大変だ。私はルイーズには苦労をかけたくない。それにクラリスの教育には莫大な時間と税がかかっている。だから――」
そこへ再び、クラリスの鈴を転がすような声が割り込んだ。
「殿下、王族の言葉は重いのです。ましてやここは公の場です。冗談では済まされません。もう私にご用はないかと思いますので失礼します」
「え?」
ロランはあっけにとられ、一拍反応が遅れた。
クラリスが裾を翻すと彼女の銀糸の髪がふわりと揺れる。
ことの成り行きを見ていた卒業生たちが、戸惑ったようにクラリスのために道を開ける。
彼女は華奢な背中を見せ、わずかに揺れる足取りで、会場を去っていく。
どこか寂しげに見えるのに、クラリスは気丈にも振り返ることはなかった。
まさかそれほど潔く受け入れるとは思っていなかった。
彼女とは十一歳の時から七年間、婚約者であり、ふたりの間にはそれなりに積み上げてきたものもあるはずだ。
だから、この件では揉めると思っていた。そこでクラリスの本性を暴き、彼女の反省を促し、ルイーズのことを認めてくれればいいとロランは考えていたのだ。
「クラリス、ちょっと待て……」
驚いてクラリスを引き留めようとするロランの声にかぶせるようにルイーズが口を開く。
「ロラン様は、本当はクラリス様の方が大切なのですか?」
ロランはルイーズの問いかけにぎょっとする。
「違う、そうではない! まだ私の話は終わっていないのだ」
「クラリスはロラン様に引き留めてほしいんです! 後を追ってきてほしいんです。跪いて詫びてほしいのだと思います! どうか行かないでください。このままでは、なにも変わりません」
そういうルイーズの瞳から、ポロリと涙が落ちる。
ルイーズが泣く姿を見て、ロランはクラリスを引き留めることができなくなった。
(ここにルイーズをひとりで置いていけない)
一時、場は騒然としたものの、すぐに白けた空気になり、高位貴族の卒業生たちは不愉快そうに帰っていく。
会場は閑散として、夜まで続くはずだった卒業パーティは早々にお開きとなってしまった。
(私はなにかを間違えたのか? ただルイーズへのいじめを認めないクラリスを反省させ、皆の前で謝らせたかったのに……)
思った以上に大事になってしまい、ロランの胸中になんとも言えない不安が広がった。
うららかな春の日差しを受け、王立学園では卒業パーティが催されていた。
なごやかな雰囲気の中、卒業生たちはダンスや食事を楽しみ、万事順調に進んでいたが、事態は急転する。
この国の王太子ロラン・アルヴァレスが放った不穏なひと言が原因だ。
「クラリス・ベルモント。このまま己の罪を認めないというのなら、お前との婚約を破棄する!」
彼の言葉で、パーティ会場は水を打ったように静まり返る。
ロランに愚かなことをしている自覚はあった。
だが、学園にいる間ずっとクラリスにさげすまれてきた男爵令嬢のルイーズ・モレアがあまりにも哀れで、言わずにはいられなかったのだ。
だから、王立学園の卒業パーティの席でクラリスに婚約破棄を言い渡し、クラリスに反省を促そうと考えた。
成績優秀で常に高位貴族の子女たちに一目置かれているせいか、クラリスは自分より劣った者を見下す癖がある。
特にルイーズのように事情がある娘はいじめられやすいのだ。
ルイーズからクラリスにいじめられているとの訴えを聞いた時は驚いた。
ロランは当然ルイーズの件をクラリスに問いただしたが、彼女は身に覚えがないと言う。
それでもルイーズの訴えは続き、間に挟まれたロランは悩んだ。次第にルイーズの友人たちの証言が集まっていく。
クラリスを中心とした高位貴族たちがルイーズをいじめていることは、この学園では公然の秘密だと聞かされた。
そんな人間が将来の国母にふさわしいわけがない。
ロランはクラリスには猛省が必要だと思った。
しかし、ロランの意気込みに反して、クラリスはわずかに眉根を寄せただけだ。
「私の罪とはなんですか? ロラン殿下、私たちの婚約は王命です。本当に婚約破棄をしていいのですか?」
王命を盾に取るとは、やはりルイーズの言う通り、クラリスは計算高い。
「お前のような卑劣なものは、王太子妃としてふさわしくない」
「卑劣とはどうことでしょう?」
心底わからないという様子でクラリスが聞いてくるので、ロランは思わずかっとなる。
「とぼけるな。ルイーズから聞いたぞ。お前は学園でルイーズをさんざんいじめた。これには証人もいる。そのうえ、卒業パーティのために準備したドレスを破くなど許しがたい」
「私は誓って、そのようなことはしておりません。それにルイーズ様のドレスは美しく、破れてなどいないではないですか」
クラリスが銀色の髪を揺らし、微かに首を傾げ、困惑したように眉尻を下げる。とぼけているのか、それとも良心の呵責がないのかロランには判断がつかない。クラリスは銀色の髪と完璧な容姿を持ち、成績も常に首位で優秀だった。そのくせ陰ではルイーズのような身分の低い貴族をいじめている。
ロランはそんなクラリスのことを、いつしか嫌うようになっていた。
クラリスの紫色の瞳はガラス玉のようになんの感情も映さず、普段から心の内を見せない。それもまた不気味で苛立たしく感じる。
出会った頃はロランもクラリスを美しいと思った。
しかし、今のクラリスは、顔立ちは整っているものの陶器でできた人形のように表情がなく、冷めた目をしている。
それに比べてルイーズは赤茶色の髪を持ち、美しいハシバミ色の瞳をしていて、温かくやわらかな雰囲気だ。愛嬌があり、天真爛漫で彼女がそばにいるだけで癒される。
「違う。お前はルイーズの部屋に忍び込んで、ドレスを破いた。だから、私が急遽別のドレスを用意したのだ。このような振る舞いをする者を次期王太子妃として認められない」
クラリスは周りに注目される中で、静かにロランに尋ねてくる。
「そもそも私はモレア様のご自宅を存じません。それでどうやってドレスを破くのですか?」
「クラリス様、どうしてとぼけるのですか! ドレスは王子宮の私の部屋にあったんです。王子宮に自由に出入りできるのは、私以外にあなたしかいません。せっかく殿下からいただいた素敵なドレスだったのに……あんまりです」
ルイーズがわなわなと震えながら必死に訴えると、いままで固唾をのんで成り行きを見守っていた卒業生たちの間にざわめきが広がっていく。
「え? 王子宮にルイーズ様の部屋があるの?」
「どういうことだ? 婚約者はクラリス様だろう?」
「ルイーズ様が、すでに王子宮で暮らしているということなのかしら?」
「ドレスを贈ったということは、やはりふたりはそういう仲だったんだな」
卒業生たちの目が冷ややかなものに変わっていく気がして、ロランはこの展開に焦りを感じる。
ルイーズは王子宮に住んでいるわけではないが、日頃から出入りを許していた。そのため部屋を与えたことは確かだし、破かれたドレスはそこにあったものだ。
王子宮に出入りできる人間は決まっていた。
だから、ロランもルイーズの言う通り、クラリスが破いたものと思っていたし、目撃者もいる。
それなのにルイーズが不用意な発言をしたせいで流れが変わってしまった。王子宮にルイーズの部屋があることの方が騒がれている。
ロランは、まずルイーズを止めなければ思った。
「ルイーズやめないか! 王子宮などと口にするな。誤解を招くではないか」
「そんな、私は、事実を言ったまでです!」
ルイーズの悲痛な叫びが会場にきんと響く。その時初めて、クラリスの紫色の瞳が揺れた気がした。
静まり返った会場でクラリスが口を開く。
「……わかりました。おふたりはそのようなご関係なのですね。それと、王子宮の出入りというのなら使用人も可能ですが?」
クラリスが取り乱すことはなかったが、硬い表情で聞いてくる。
ルイーズの不用意な発言から潮目が変わり、明らかにロランの分が悪い。
ロランはただこの交渉をうまくまとめたかっただけだ。落としどころも決めていた。だから、そのためにクラリスの気持ちを揺さぶろうと最初に『婚約破棄』を宣言したのだ。
だが、当のクラリスは声を荒らげることもなく落ち着いていて、淡々としている。
それどころか、ルイーズの発言で周りの者たちはロランの不貞を疑いはじめた。
しかし、ここで黙ってしまったら、ロランの負けだ。なんとしてもルイーズを狡猾にいじめるクラリスを懲らしめたい。
ルイーズはロランにとってなによりも大切な人なのだから。
「お前が私の婚約者だということをかさに着て、学園で長い期間に渡りルイーズを執拗にいじめていたのは知っている。その行為は次期王太子妃としてふさわしくない!」
「いじめた覚えはありません」
凛としたたたずまいで答えるクラリスを前にして、ロランはひるみそうになる。
だが、どうあっても、ここで彼女のおごりを突き崩したい。
そうしなければ、今後王宮でのルイーズの立場が悪くなってしまう。
「どうして嘘ばかりつく? お前の顔など見たくない。私の前から消えろ。いや、この国から出ていけ!」
うろたえたロランは、言うつもりのない言葉まで叫んでいだ。
この国に居場所がないとわかればクラリスも慌てるかと、思わず口走ってしまった。
だが、ロランがそう叫んだ瞬間、クラリスの口角がゆっくりと上がる。
彼女がほほ笑んだのだとわかった。
「ロラン殿下、ご下命賜りました」
クラリスは優美なカーテシーをする。
硬質な光を宿すクラリスの紫の瞳は澄み切っていて、なんの感情も読み取れない。
ロランは、ここまで言っても縋ってこないクラリスを見て動揺する。
(いったいどういうつもりだ? クラリスは十一歳の頃からお妃教育に多くの時間を費やしてきたというのに。王太子の婚約者という立場は、それほど簡単に手放せるものなのか? 将来国母となるのだぞ? 高位貴族の娘なら誰もが望む憧れの地位だ)
「クラリス、この先、結婚相手の条件が悪くなるぞ。お前がルイーズに、今ここで跪いて謝るのなら、許してやろう。なんならルイーズの補佐として雇ってもいい」
できるならクラリスを正妃ではなく側室に迎えよう考えていた。もしベルモント家が強硬に反対するようなら、クラリスをお飾りの正妃として、愛するルイーズを側室にしてもいい。
なぜなら、ロランはベルモント家の後ろ盾が必要だと常々王妃から言い聞かされていたからだ。モレア男爵家ではロランの後ろ盾にならない。
ロランは自分の王太子としての立場も守りたかったし、愛するルイーズも守りたかった。
そのためにロランは強硬手段に出たのだ。
クラリスは次期王太子妃として、在学中にロランの補助として執務を手伝っていた。彼女の事務処理能力は抜きん出ていて、すぐに王宮の優秀な官吏たちの信頼を得る。
王宮内にクラリスの取り巻きのようなものができ、官吏たちに優秀だとちやほやされて彼女はここまで増長してしまったのだ。
クラリスには、王太子であるロランを敬う気がまるでない。
これではどちらが王太子かわかったものではない。
「ロラン様! それは嫌です。モレア家は今でこそ男爵家ですが、もとは侯爵家です。私に補佐などいりません!」
目に涙をためて訴えるルイーズを見て、ロランの胸は痛む。
モレア家は、ルイーズの父の失策のせいで侯爵家から男爵家に降爵させられたのだ。
本来ならクラリスではなく、ルイーズがロランの婚約者となっていたはずだった。なぜなら、ふたりは幼い頃からお互いを思い合っていたのだから。
ルイーズが男爵領にこもり離れた時期はあったが、学園で再び出会い、ふたりの思いは再燃した。
世間から見れば、ロランの浮気かもしれない。
だがロランとルイーズからすれば、クラリスこそが途中からふたりの間に入ってきた邪魔者だ。
「お妃教育は大変だ。私はルイーズには苦労をかけたくない。それにクラリスの教育には莫大な時間と税がかかっている。だから――」
そこへ再び、クラリスの鈴を転がすような声が割り込んだ。
「殿下、王族の言葉は重いのです。ましてやここは公の場です。冗談では済まされません。もう私にご用はないかと思いますので失礼します」
「え?」
ロランはあっけにとられ、一拍反応が遅れた。
クラリスが裾を翻すと彼女の銀糸の髪がふわりと揺れる。
ことの成り行きを見ていた卒業生たちが、戸惑ったようにクラリスのために道を開ける。
彼女は華奢な背中を見せ、わずかに揺れる足取りで、会場を去っていく。
どこか寂しげに見えるのに、クラリスは気丈にも振り返ることはなかった。
まさかそれほど潔く受け入れるとは思っていなかった。
彼女とは十一歳の時から七年間、婚約者であり、ふたりの間にはそれなりに積み上げてきたものもあるはずだ。
だから、この件では揉めると思っていた。そこでクラリスの本性を暴き、彼女の反省を促し、ルイーズのことを認めてくれればいいとロランは考えていたのだ。
「クラリス、ちょっと待て……」
驚いてクラリスを引き留めようとするロランの声にかぶせるようにルイーズが口を開く。
「ロラン様は、本当はクラリス様の方が大切なのですか?」
ロランはルイーズの問いかけにぎょっとする。
「違う、そうではない! まだ私の話は終わっていないのだ」
「クラリスはロラン様に引き留めてほしいんです! 後を追ってきてほしいんです。跪いて詫びてほしいのだと思います! どうか行かないでください。このままでは、なにも変わりません」
そういうルイーズの瞳から、ポロリと涙が落ちる。
ルイーズが泣く姿を見て、ロランはクラリスを引き留めることができなくなった。
(ここにルイーズをひとりで置いていけない)
一時、場は騒然としたものの、すぐに白けた空気になり、高位貴族の卒業生たちは不愉快そうに帰っていく。
会場は閑散として、夜まで続くはずだった卒業パーティは早々にお開きとなってしまった。
(私はなにかを間違えたのか? ただルイーズへのいじめを認めないクラリスを反省させ、皆の前で謝らせたかったのに……)
思った以上に大事になってしまい、ロランの胸中になんとも言えない不安が広がった。