婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~

明かりを落とすと、部屋は一気に静かになった。外の風の音や虫の声がより鮮明に聞こえる。

まさかこんな日が来るとは……。
一日限りの婚約者。実際は恋人でも何でもない、ただの会社の上司とこうして布団を並べることになろうとは想像もしなかった。

戸惑いながら布団に横になっても、当然目は冴えたままである。

「……眠れないか」

暗闇から綾斗さんの静かな低い声が届く。

「……少し」

正直に答えると、綾斗さんが微かに笑ったのが分かった。

綾斗さんだって寝てないじゃない。さっきはグッスリ眠れそうだ、なんて言ったくせに。
ああでも、寝れるわけないか……。私なんかがいたら邪魔で本当は嫌なのかも。

それに、明日の予定を飛ばしちゃったんだもんね。綾斗さんは明日のことが気がかりで眠れないのかもしれない。

「あの……、すみませんでした」
「何が?」
「日帰りの予定だったのに泊まらせてしまって。明日の予定、大丈夫でしたか?」

挨拶だけして帰る、そんなたった一日限りの婚約者の予定だったのにこんなことになってしまった。
私の謝罪に綾斗さんは穏やかに答えた。

「茉白のせいじゃない。気にするな、大したことないから」

優しい言い方に胸がじんわりと温かくなる。
綾斗さんは仕事中はいつも厳しく凛としていて、一緒にいると背筋が伸びる感じがする人。専務なんて雲の上の人だ。

でも、本当は気遣いのできる優しい人だ。
きっと、婚約者のフリをする関係になっていなかったら、ずっと知らないままだったんだろう。

「ありがとうございます」

お礼を言うと、綾斗さんが微かに笑ったのを感じた。

「それにしても、夜は静かなところなんだな」
「お店はほとんど閉まりますからね。……子供の頃はこの静けさが苦手でした」
「怖かったのか?」
「はい……。世界で一人きりになってしまう気がして……」

両親は遅くまで仕事だ。兄とは部屋が別なので、暗い部屋でひとり、寂しくて怖くて……。
泣きながら布団にくるまって眠っていた頃を思いだす。

「じゃあ、今日は怖くないな」
「え……?」
「俺がいるから怖くはないだろう」

そっと振り返ると、綾斗さんが優しく私を見ていた。

なんで……、どうしてそんなに優しいことを言うの。

胸にじわっと熱いものが広がり、私は綾斗さんから目が離せなくなった。

お互いの布団の隙間は50センチ程度。お互いに手を伸ばせば届く距離。
もし私が手を伸ばしたらどうなるんだろう。フッとそんな疑問が頭をよぎる。
どうにもならない、手を振りほどかれる。嫌悪を抱かれるかも。そんなことわかっているのに、もしという考えが消えないでいた。

「……綾斗さん」

そっと声をかけると、隣で小さく息を吸う気配がした。綾斗さんは私から目を逸らし、静かに背中を向ける。

「眠れ」
「……はい」

強い拒否ではない。しかし、見えない壁がそこにはあった。

バカだ、私。いったいどうしたいというのだろう。偽物の関係なのに……。慰めが欲しかった? 甘やかしてほしかった? そんなの綾斗さんにいい迷惑だ。

もちろん、本当に手を伸ばすことはない。それ以上、私たちに言葉はなかった。

けれど、眠れたかと聞かれたら答えは否だ。
眠れるはずがない。隣に人が――、綾斗さんがいるだけでこんなにも心臓がうるさいなんて。

どうしてこんな夜になっちゃったんだろう。嘘なのに。嘘の関係なのに……。

当り前に一線を越えることはない。
それが、こんなに胸を締め付けるなんて……、思いもしなかった。

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