婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
病院の待合室は白くて静かで、消息薬の匂いがした。
中に入った私たちの姿に気が付くと、母が駆け寄ってくる。
「茉白! 来てくれたのね」
「お母さん、お父さんは?」
「今、先生が診て下さっているわ。お父さん、階段から派手に落ちて、頭を強く打ったようなの。初めは返答があったのに、途中から反応がなくなって……」
母は真っ赤な目で説明してくれる。私も泣きそうになったが、ここで泣いたら二人とも崩れてしまいそうで堪えた。
旅館は兄夫婦が回してくれているという。
「大丈夫、きっと大丈夫だから」
根拠はないが、そう母に言うことで私も信じる。
すると、母が私の後ろにいる綾斗さんに気が付いて目を丸くした。
「綾斗さんも来てくださってたのね」
「ええ、茉白さんが動揺していたのでひとりには出来なくて……」
「ありがとうございます。遠い所を……」
母は深くお辞儀をした。その肩が震えていて、私は思わず抱き締める。
「お母さん、何か飲みますか。自販機で買ってきます」
「あ……、すみません。じゃあお茶を……」
「茉白は?」
「私も同じもので……」
頷いた綾斗さんが待合室を出て行く背中を見送って、母がそっと私の袖を引いた。
「茉白」
「なに?」
「……来てくれて良かった。綾斗さんが一緒で良かったね」
母の声が少しだけ掠れている。私は何も言えなくてただ頷いた。
検査結果が出たのは、その30分後だった。
「落ちた時に足をねん挫していましたが、頭のCTも血液検査も異常ないです。今のところ心配はありません。帰って大丈夫ですよ」
「あ、あの意識がなかったのは……?」
母が聞くと、医師は呆れたように苦笑した。
「ご本人の話だと、前日、商店街のメンバーと深酒をして寝不足だったとか。まぁ、つまり意識がないのではなく寝ていたようですね」
「……ね、寝ていた?」
呟いた母はその場にヘナヘナと座り込む。
気持ちはわかる。私も安堵と呆れとで脱力しそうだった。
しばらくして、処置を終えた父が車いすで出てきた。右足を包帯で巻き、顔に擦り傷ができているが表情はいつも通りだ。
「茉白! 来たのか!」
笑顔で手を上げる父に私は詰め寄った。
「当り前でしょう! 階段から落ちて意識がないって聞いて……。なのに深酒で寝ていただなんて、何やっているのよ、お父さん!」
「いや~……、うっかり踏み外して床に横になったら眠気が……」
「眠気が……じゃないの! 心配したんだからね!」
「すまん、すまん……」
私の怒りに父が申し訳なさそうに手を合わせる。
綾斗さんが「まぁまぁ」と私の両肩にそっと手を置いて宥めた。
「ああ、綾斗君も来てくれたのか!」
綾斗さんの姿にパッと顔を明るくする父。怪我をしたとは思えないいつもの父になんだか気が抜けた。
「わざわざ来てくれたのか。悪かったね。せっかくだし、今夜は旅館に泊まって行ってくれ」
「お父さん! 綾斗さんは忙しいの!」
また勝手なことを言い出した父を窘めると、綾斗さんが苦笑した。
「いえ、そのつもりで調整してきています。泊まらせてください」
「え……、大丈夫なんですか?」
私の心配をよそに、綾斗さんは笑顔で頷く。
「綾斗君、いい日本酒が手に入って……」
「お父さん! お父さんは当面お酒は禁止です! まずは茉白と綾斗さんに謝りなさい!」
母が父を叱る。父はシュンと落ち込み、拗ねた子供のように口をとがらせながら「本当にすまなかった」と頭を下げた。
その光景を見ていたら、こみ上げてくるものがあった。
良かった、本当に。
視線を感じて横を見ると、綾斗さんが優しい顔で見下ろしていた。
「良かったな」
静かな一言。でも、凄くホッとする。
「……はい」
答えながら目が潤んでしまった。慌てて天井を見る。泣かない。ここでは泣かないんだ。
「泣いていいぞ」
「泣きません」
「目が赤い」
「……蛍光灯が眩しいんです」
綾斗さんは何も言わなかった。ただ微笑みながら隣に立っていてくれた。
それだけで十分だった。