婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
夕飯後、萩の間に布団が二組敷かれているのを見た時、一回目の帰省を思い出した。
あの時は緊張でドキドキしていたが、今は違う意味で胸が痛い。小さくため息がこぼれた時、「茉白」と後ろから呼ばれた。
振り返ると、綾斗さんが少し離れたところに立っていた。
「何ですか」
「……様子がおかしいな」
「そんなことはないです」
「俺にはそう見えないが?」
「気のせいです」
私のかたくなな返答に綾斗さんが黙った。いやいや、様子もおかしくなりますって。とは何も言えなくて、部屋に沈黙が下りる。
「先にお風呂入ってきます」
先に逃げたのは私だった。
だって、どうしろっていうの。
様子がおかしいと言われても、素直に話す気にはまだなれない。でも、前のように気軽に笑顔を向けるにはまだ心の整理がついていない。
今までは一緒に居られる時間が嬉しかったのに、今はこんなに苦しいなんて困ったものだ。
お風呂から戻ると、綾斗さんはすでに浴衣に着替えて広縁の椅子に腰かけて外を眺めていた。夜の庭を見ながら、何かを考えている横顔。
「……」
声をかけようとしてやめた。
何を話せばいいの? 視察のことを聞けばいい?
「茉白」
「……はい」
「突っ立っていないで座れ」
綾斗さんの前の椅子を指さされる。
「そう怖い顔をするな」
「してません」
「してる」
綾斗さんが少しおかしそうにこちらを見た。真っすぐな目。その視線に耐え切れず、私は仕方なく綾斗さんの前の椅子に座った。
小さなテーブルをはさんで、その距離は一メートルほど。
庭の木が風で揺れるのを見ながら、私はポツリと聞いた。
「……綾斗さんは明日どうするんですか?」
「少し町を見てから帰ろうと思っている」
「視察ですか」
頭に浮かんだ言葉がつい口から出てしまい、しまったと慌てて口元を抑える。
まだ言うつもりはなかったのに。綾斗さんは真っすぐに私を見た。
「……誰に聞いた。 真田か?」
怒っているわけでもない、淡々とした声。感情が読めなくて一番困る声。
「はい……」
「そうか……」
綾斗さんは視線を庭に戻した。何かを言おうとしているのがわかる。
『言い訳、聞いてあげたら』
穂乃果の声がよぎるが、私は聞きたくなかった。
怖い。聞いてしまったら、全てがなかったことになる気がしたから。
「……お風呂、まだでしたよね。今なら空いていると思うし、入るチャンスですよ」
話をすり替えるように、私は少し明るく提案した。
「茉白」
「布団、先に入っていてもいいですか? 今日は父の事もあって疲れていて……」
「……わかった」
綾斗さんは小さく息を吐き、椅子から立ち上がった。浴衣の帯を直しながら部屋を出て行く。
一人になったとたん、どっと力が抜けた。
やっぱり、仕事目的だったのかもな。今日ついてきてくれたのも、心配反面視察ができるっていうよこしまな気持ちがあったのだろう。
そう考えた方が楽だと思った。期待しない方が傷つかない。
ギュッと目を瞑る。大丈夫、こんなことで泣いたりなんかしない。
私は立ち上がると電気を消して布団に入った。
でも、何度目を閉じても眠れることはなかった。