婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~

夕方、帰り支度をしているとスマホが鳴った。

「あ……」

表示を見て思わず小さな声が出る。

『この後、少し時間もらえないか。話がしたい』

綾斗さんからだった。不意に椎葉さんの声がよみがえる。

逃げないでほしい。

うん、今度は逃げない。話もちゃんとしたい。だから私はすぐに返事を打った。

『私も綾斗さんと話がしたいです』

――――

指定されたのは、一番最初に打ち合わせをしたホテルフォルトゥーナの個室レストランだ。
来る途中から心臓が早鐘を打って苦しいくらい。でも、足は真っすぐにレストランへと向かっていた。

緊張しながら個室の扉を開けると、綾斗さんが窓の前に立っていた。振り返った表情はいつも通り、無表情。

「来たか、座れ」
「はい」

促されて椅子に座ると、綾斗さんも向かいに腰を下ろす。そしてテーブルのワインを一口飲むと、真っすぐ私を見つめてきた。

「茉白」
「はい」

名前で呼ばれて、胸がキュッとなる。綾斗さんに名前を呼ばれることが純粋に嬉しかった。

「真田から聞いた。視察の件を話したと」
「……はい」

膝の上で手をギュッと握る。全て視察のためだったと言われる覚悟はできている。

「勝手に話した件については、俺からも謝罪させてくれ。すまなかった」
「いえ……」

わかっている、この謝罪は上司としてだろう。でも、なんだか胸がズキンとした。

「だが、一つだけ言わせてくれ」
「……」
「帰省に付き合ったのは……、婚約者のフリをしたのは視察が目的じゃない」

綾斗さんは真っすぐに私の目を見て言った。

「そもそもはパーティーを抜け出すお礼……でしたね」
「ああ、初めはそうだった。お礼でもあったし、候補地のことも頭をよぎった。行くメリットはあると思った」

ああ、やっぱりそうだよね。わかっている。

でも素直にそう言われると胸が苦しい。綾斗さんにとっては仕事のため。
私に優しくしていたのも、実家が候補地にあるから。情報を引き出して、今後の交渉にも有利にするため。

そうなんだろう。わかってはいるけど、胸が痛い。

思わず俯くと、視界の端で綾斗さんが立ち上がるのがわかった。そして、私の隣まで来ると立膝をついて私の顔を覗き込んだ。

「え……」
「婚活パーティーの時、茉白にすぐ気が付いた。最初からずっと目について仕方なかった。実家のことで困っていると聞いた時、仕事が頭をちらついたのは一瞬だった。君のことが気になっていたから、あんなことを言ったんだと思う」

綾斗さんは少しだけ、戸惑いの表情を見せた。そんな顔初めて見る。

「仕事のこと抜きで、君に協力をした」
「え……」
「俺は……、どうしてこんなにも茉白が気になるのか、目につくのか、力になりたいのか……。それが何なのか、ずっとわからないふりをしていた」
「……わからないふり?」
「認めるのが怖かった。認めたら……、どうにかなりそうだったからかもしれない」

苦笑する綾斗さんは、専務の顔をしていない。胸の奥がじわじわと熱くなってくる。椎葉さんが、綾斗さんは自覚したら真っすぐだと言っていた。

自覚って何? 何のこと?

綾斗さんは今、真っすぐな瞳で私を見つめてくる。綾斗さんの手が、私の手にそっと重なった。あの撮影の時に手を包まれた時と同じ、温かくて大きい手。二度目の時の帰省でつないだ手と同じ……。
その手に一瞬、力がこもる。

「好きだ、茉白」

目の奥が一気に熱くなった。

今……。なんて……。

「仕事は関係ない。俺は茉白のことが好きだ」

文跡さんが言い終わるのと同時に、私の唇が小さく震え、一粒だけ涙がこぼれた。

「泣くな」
「泣いてません」
「また強がる」

ふっと笑う綾斗さんの表情は柔らかい。専務ではなく、綾斗さんとして私に向き合っている。それが良く分かった。
だから、胸の奥が熱くてたまらない。

「仕事のために……、優しくしてくれたわけじゃないんですか?」
「そう疑っていたんだな。 だから俺から逃げて話を聞こうとしなかった? どうして」
「だって、綾斗さんが私なんかを選ぶはずがないから……」

穂乃果からよく指摘される‘なんか‘が口から滑り落ちる。すると、綾斗さんは私の頬にそっと触れた。

「私なんかって言うな。俺は茉白だから選んだんだ」
「綾斗さん……」
「俺の気持ちを疑うな」

少し偉そうで、でも真っすぐにぶつけてくる綾斗さんの気持ちに今度こそ涙腺が崩壊した。
ポロポロと涙が流れる私の手を引き、綾斗さんは椅子から立ち上がらせるとそのまま引き寄せて私を胸の中に閉じ込めた。

「っ……」
「嫌だったら俺を拒め」

軽く背中に添えられた腕は、きっといつでも振りほどけるだろう。でも私はそれが出来なかった。拒めるはずがない。
だって、わたしだって……。

「綾斗さんが好きです」

胸に顔を埋めながら、私は涙で震える声で呟いた。綾斗さんが息を呑むのが分かった。

「あなたが好きだから、仕事のために優しくしていたって……利用していたって言われたらどうしようって……」
「そう思わせてごめん」

遠慮がちに綾斗さんの背中に手を回すと、綾斗さんの腕に力がこもる。

「なぁ、さっきの……、聞こえなかった」
「……聞こえてましたよね?」
「もう一度言ってくれ」
「……意地悪ですね」

少しだけ拗ねた声を出すと、綾斗さんが私を覗き込む。

「ああ、だって何度でも聞きたいからな」
「っ……」

どうして、そんな風に幸せそうに微笑むの。
そんな顔をされたら、何度でも言える。喜んでほしくて、何度だって言えるよ。

「好きです、綾斗さん」
「ああ、俺も」

短い返事なのに、その声は今まで聞いたどの声よりも温かくて柔らかかった。


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