部長と私の秘め事
それからティッシュで口元を拭ってから、じっとりとした目で私を見た。
《それなぁ……。っていうかお前、いまどき〝しっぽり〟って……》
「なんか、大人の二人だし、小料理屋の着物着た若女将って言ったら〝しっぽり〟じゃないですか。……ていうか、このネタ、ずっと気になってたんです。小料理屋に行ってるのは本当?」
《それは事実》
彼は溜め息をつきながら、ワシワシと頭を掻いている。
「何か言いづらい事でも?」
私は抱き締めたクッションに顎を埋め、上目遣いに尊さんを見る。
《いや、全然。小料理屋の女将さんは、東雲小牧(しののめこまき)ちゃん、二十九歳。店は銀座にある『こま希』》
おお、すんなり白状した。
……ていうか〝小牧ちゃん〟?
「どういう関係です?」
《従妹だよ》
「へっ?」
予想外の返事があり、私は声を上げる。
《ちえり叔母さんの話をしただろ。小牧ちゃんは彼女の長女。父親は呉服屋『しののめ』の社長で、兄は常務。母親はピアノ教室の講師……って環境で、『私は料理が好きだから!』って自分の道を貫いて、小料理屋を開いた人》
「へええ……」
感心していると、尊さんはちょっと微妙な顔になる。
《小牧ちゃんがそういう感じで自分の進路を決めちまったから、次女の弥生(やよい)ちゃんがピアノ講師になったわけだけど……。好きでやってはいるみたいだけど、ちょっと姉を恨んでるところはあるかな》
「あー、なるほど。……でもそれでピアノ講師になったって、凄いですね。音大出たんですよね?」
《そう。聴かせてもらった事あるけど、相当うまいよ》
ピアノをやってる尊さんがうまいって言うんだから、相当なんだろう。いや、プロだし。
「いいなぁ、私もそのお店行きたい」
《ん、今度一緒に行こう。誘うつもりでいたけど、色んな事があって失念してた》
「密かに噂になってたから、〝いい人〟なのかと思ってました」
《いやいや、んなまさか。一回誰かに見られて聞かれた事があったけど、従妹だって説明して詮索されたり、小牧ちゃんに迷惑をかけたくねぇから黙ってただけだ》
「そっかー」
安心した私は胡座をかき、クッションをモフモフと両手で潰す。
「異性的な関係じゃないって確認したから言えるのもありますけど、尊さんにそうやって親しく話せるいとこさんがいるの、嬉しいです」
《ありがと。小牧ちゃん、妹と少しギスギスしてるって言ったけど、根深い感じじゃないんだ。本人はピアノも仕事も好きでやってる。ただ学生時代にコンクールに出た時とか、小牧ちゃんがカラッとした性格だからか、励まし方が……合わなかったんだろうなぁ。『私がこれだけプレッシャーを抱えているのは、誰のせいだと……!』……って》
「あっ、なるほど! そっち」
なんとなく想像できて、私はポンと手を打つ。
姉妹でも正反対の性格に生まれる事は珍しくなく、生き方や性格の違いに、イラッとしてしまう事はあるとよく聞く。
《弥生ちゃんも姉の店にはよく行くし、兄貴の大地(だいち)も通っていて、兄妹仲はいいよ。大地は三十歳で新婚ホヤホヤ》
「へぇ、いいですね! そういうの。素敵」
《結婚式に呼んでもらったけど、弥生ちゃんがピアノを披露して、なかなか感動的だった》
とても優しい顔をしている尊さんを見て、私は嬉しくなってしまう。
彼が親戚の結婚式に行ったとか、普通の幸せをちゃんと味わっていた事を知れて本当に良かった。
《それで、俺のほうも話ぶった切るけど》
「はい」
《朱里のマンション、更新時期はいつだ? 大体は一か月前に連絡のはずだけど、たまに二、三か月前までってところもあるし、そこんトコどうなってる?》
「あ……、その話……」
以前から尊さんに『一緒に住もう』と言われていたけれど、いつ本当に動き出したらいいか分からず、私からは話題にできずにいた。
彼の提案は勿論嬉しいし、今すぐ一緒に生活したい。
でも『本当にいいのかな?』と遠慮する気持ちがあって、躊躇っていたのも事実だ。
《朱里? ……どうだ? 本当に俺の所に来ないか?》
スマホの向こうで、尊さんが優しく笑って尋ねてくる。
――嬉しい。
私は実家を出てからずっと、『これからどうなるのかな?』という不安を抱きながら過ごしていた。
でもこんな私に向かって、両腕を広げて『飛び込んでおいで』って言ってくれる人が現れるとは思っていなかった。
「……いいんですか?」
ほんの少し震える声で尋ねると、尊さんは柔らかく笑った。
《今さら何を言ってんだよ。手の届くところにいてくれたほうが、俺も安心できるから、側にいてくれ》
(『側にいてくれ』ってええええ!! 一生側にいる!!)
私は一人で悶絶したあと、食い気味に言った。
「じゃあ、すぐ契約書確認して、明日不動産会社に連絡します!」
《おう。確認してからな》
はぁー……。あとちょっとすれば尊さんと結婚できるのか……。
……あれ? 姓は篠宮になるの? ……だよね。
頭の中で色々妄想したあと、グルッと一回りして通るべき問題に行き着いた。
「……やっぱり、今のマンションを出て尊さんのところに行くにも、親には一言いっておいたほうがいいですよね」
《それな》
尊さんは画面の向こうで頷き、プレジデントチェアに背中を預けると腕を組んだ。
《……今週金曜は新年会だよな。そっちを優先して、可能だったら土曜日に軽くご挨拶するか。……いや、いきなり今週末は急すぎるか?》
「うーん、予定聞いてみますね。ちょっと失礼」
私はスマホを手に取るとメッセージアプリを開き、スパパパパ、と母に向かってメッセージを打つ。
《それなぁ……。っていうかお前、いまどき〝しっぽり〟って……》
「なんか、大人の二人だし、小料理屋の着物着た若女将って言ったら〝しっぽり〟じゃないですか。……ていうか、このネタ、ずっと気になってたんです。小料理屋に行ってるのは本当?」
《それは事実》
彼は溜め息をつきながら、ワシワシと頭を掻いている。
「何か言いづらい事でも?」
私は抱き締めたクッションに顎を埋め、上目遣いに尊さんを見る。
《いや、全然。小料理屋の女将さんは、東雲小牧(しののめこまき)ちゃん、二十九歳。店は銀座にある『こま希』》
おお、すんなり白状した。
……ていうか〝小牧ちゃん〟?
「どういう関係です?」
《従妹だよ》
「へっ?」
予想外の返事があり、私は声を上げる。
《ちえり叔母さんの話をしただろ。小牧ちゃんは彼女の長女。父親は呉服屋『しののめ』の社長で、兄は常務。母親はピアノ教室の講師……って環境で、『私は料理が好きだから!』って自分の道を貫いて、小料理屋を開いた人》
「へええ……」
感心していると、尊さんはちょっと微妙な顔になる。
《小牧ちゃんがそういう感じで自分の進路を決めちまったから、次女の弥生(やよい)ちゃんがピアノ講師になったわけだけど……。好きでやってはいるみたいだけど、ちょっと姉を恨んでるところはあるかな》
「あー、なるほど。……でもそれでピアノ講師になったって、凄いですね。音大出たんですよね?」
《そう。聴かせてもらった事あるけど、相当うまいよ》
ピアノをやってる尊さんがうまいって言うんだから、相当なんだろう。いや、プロだし。
「いいなぁ、私もそのお店行きたい」
《ん、今度一緒に行こう。誘うつもりでいたけど、色んな事があって失念してた》
「密かに噂になってたから、〝いい人〟なのかと思ってました」
《いやいや、んなまさか。一回誰かに見られて聞かれた事があったけど、従妹だって説明して詮索されたり、小牧ちゃんに迷惑をかけたくねぇから黙ってただけだ》
「そっかー」
安心した私は胡座をかき、クッションをモフモフと両手で潰す。
「異性的な関係じゃないって確認したから言えるのもありますけど、尊さんにそうやって親しく話せるいとこさんがいるの、嬉しいです」
《ありがと。小牧ちゃん、妹と少しギスギスしてるって言ったけど、根深い感じじゃないんだ。本人はピアノも仕事も好きでやってる。ただ学生時代にコンクールに出た時とか、小牧ちゃんがカラッとした性格だからか、励まし方が……合わなかったんだろうなぁ。『私がこれだけプレッシャーを抱えているのは、誰のせいだと……!』……って》
「あっ、なるほど! そっち」
なんとなく想像できて、私はポンと手を打つ。
姉妹でも正反対の性格に生まれる事は珍しくなく、生き方や性格の違いに、イラッとしてしまう事はあるとよく聞く。
《弥生ちゃんも姉の店にはよく行くし、兄貴の大地(だいち)も通っていて、兄妹仲はいいよ。大地は三十歳で新婚ホヤホヤ》
「へぇ、いいですね! そういうの。素敵」
《結婚式に呼んでもらったけど、弥生ちゃんがピアノを披露して、なかなか感動的だった》
とても優しい顔をしている尊さんを見て、私は嬉しくなってしまう。
彼が親戚の結婚式に行ったとか、普通の幸せをちゃんと味わっていた事を知れて本当に良かった。
《それで、俺のほうも話ぶった切るけど》
「はい」
《朱里のマンション、更新時期はいつだ? 大体は一か月前に連絡のはずだけど、たまに二、三か月前までってところもあるし、そこんトコどうなってる?》
「あ……、その話……」
以前から尊さんに『一緒に住もう』と言われていたけれど、いつ本当に動き出したらいいか分からず、私からは話題にできずにいた。
彼の提案は勿論嬉しいし、今すぐ一緒に生活したい。
でも『本当にいいのかな?』と遠慮する気持ちがあって、躊躇っていたのも事実だ。
《朱里? ……どうだ? 本当に俺の所に来ないか?》
スマホの向こうで、尊さんが優しく笑って尋ねてくる。
――嬉しい。
私は実家を出てからずっと、『これからどうなるのかな?』という不安を抱きながら過ごしていた。
でもこんな私に向かって、両腕を広げて『飛び込んでおいで』って言ってくれる人が現れるとは思っていなかった。
「……いいんですか?」
ほんの少し震える声で尋ねると、尊さんは柔らかく笑った。
《今さら何を言ってんだよ。手の届くところにいてくれたほうが、俺も安心できるから、側にいてくれ》
(『側にいてくれ』ってええええ!! 一生側にいる!!)
私は一人で悶絶したあと、食い気味に言った。
「じゃあ、すぐ契約書確認して、明日不動産会社に連絡します!」
《おう。確認してからな》
はぁー……。あとちょっとすれば尊さんと結婚できるのか……。
……あれ? 姓は篠宮になるの? ……だよね。
頭の中で色々妄想したあと、グルッと一回りして通るべき問題に行き着いた。
「……やっぱり、今のマンションを出て尊さんのところに行くにも、親には一言いっておいたほうがいいですよね」
《それな》
尊さんは画面の向こうで頷き、プレジデントチェアに背中を預けると腕を組んだ。
《……今週金曜は新年会だよな。そっちを優先して、可能だったら土曜日に軽くご挨拶するか。……いや、いきなり今週末は急すぎるか?》
「うーん、予定聞いてみますね。ちょっと失礼」
私はスマホを手に取るとメッセージアプリを開き、スパパパパ、と母に向かってメッセージを打つ。