部長と私の秘め事
(……おや)

 いない。

 右を見ても左を見ても、廊下は静まりかえっている。

 玄関ドアの周辺を見ても、特に何もイタズラされていない。

(近所の人でも帰ってきたのかな)

 安心した私はドアを閉め、また幾つもある鍵を閉めてチェーンもしてから、スマホの前に戻った。

「誰もいませんでした」

《……『出るな』って言ったよな?》

 ……あ、怒ってる。

「……すみません。……安心したかったので」

 謝ると、尊さんは溜め息をつく。

《無事だったから良かったけどさ。……ホント、頼むよ……》

 尊さんは疲れ切ったように両手で顔を覆い、両肘をデスクにつけて項垂れている。

「……ごめんなさい」

 その姿を見ると本当に申し訳なくなり、今度は本気で謝った。

《……まぁ、しょうがないか。今まで自分一人で安全を確認して生きてきたんだもんな。……ただ、今のゾンビ映画だったら絶対にフラグだったからな。いいか、不審者はゾンビだと思え。少しでも触れられたらアウトだ》

「はいっ」

 最後はビシッと言われ、私は背筋を伸ばして返事をする。

《……はぁ……。早くお前と一緒に住みたいよ。……女性の一人暮らしってそういう危険もあるもんな。……分かっていたようで失念してた》

 尊さんは心底心配してくれているようで、やや粗い画質越しにも眉間の皺が深いのが分かる。

「心配してくれてありがとうございます。あと少しでそちらに厄介になりますし、短期間にもう変な事は起こらないと思います」

《……そうだな。信じよう。……早く俺の家でジャージ姿の朱里を見たいよ》

「えっ……。……あっ、あーっ!」

 ジャージと言われて初めて気づいたけれど、家で着ている学ジャー姿のまま、うっかり尊さんとのテレビ電話に出てしまっていた。

「まっっっって…………。しんど……、しんどい……。学ジャー姿で尊さんと話してた……。くっっっそ…………」

 私は三角座りをしたまま、膝に顔を埋めてプルプル震える。

《なんでそんなに恥ずかしがるんだよ。別にフツーの学ジャーだろ》

 そうなんだけど……。そうなんだけど……!

 普段、気合い入れてメイクして、限られたアイテムの中でお洒落にこだわっている私からすれば、気合いの抜けきった姿を晒したのは屈辱以外のなにものでもない。

「『目の届いてないところだと、だらしないのか』って思われるのが嫌だったんですー」

 脱力のあまり、体がスライムのように溶けていってしまいそうだ。

《別にいいだろが。俺だって家だとスウェットよく着るし》

「尊さんのスウェットなんてご褒美じゃないですか! 筋肉質の体にスウェット!? 服に出る皺の一本一本まで、こちとらご褒美なんですよ!」

 私はクワッとキレ気味になって言う。

《……なんでキレるんだよ……》

 尊さんは私の態度を見て困惑している。

「はー…………」

 私は後ろにあるベッドにもたれ掛かり、頭を乗せて思いきり大きな溜め息をつく。

《それはそうと、ご両親に挨拶するのは最優先事項として、引っ越しは更新前でもいいわけだろ? 手伝うから、早めにこっちにこられないか? 引っ越し業者への連絡とか面倒だと思うから、俺のほうで手配するよ》

「あー……。や、引っ越しは慣れてるんですけど。……あー、そっか……」

 何回も引っ越ししているので、慣れていると言えば慣れている。

 でも今まで通りにいかないと、すぐに思い直した。

《どした?》

「……や、……怒りません?」

《お前がそうやって前置きするっていう事は、男がらみだな? よし、来い》

 尊さんはそう言って胸に手を当てると、軽く目を伏せて横を向き、つらそうに眉を寄せる。

 まるで昭和時代の耽美な少女漫画で、キラキラ目の男性が傷付いた時のポーズみたいだ。

 傷付く気満々ですという態度に、私はブヒュッと鼻水を噴いてしまい、慌ててティッシュに手を伸ばす。

「笑かすのやめてください……っ」

 私は横を向いてブヒューと洟をかみながら、震える声で言う。

《……だってお前に男が絡んでるっていったら、絶対妬くから、こうでもしねぇと気が紛れねぇよ》

「はー……。いや、大した事じゃないんですけど、さっきの防犯関係にも絡みますが、今まで何かあったら昭人とか、恵の友達が手助けしてくれたんです」

《なるほど》

 普通の顔に戻った尊さんは、納得して頷く。

「で、引っ越しの時もツテで軽トラを出してもらえて、その人たちの力を借りてたんです。だからお礼に一人一万円包んで、三万円ぐらいで済んでいました」

《お、ちゃんと金払ったんだ。偉いな》

「こういうの、厚意に甘えてなあなあにしていたら、そのうち境界線が曖昧になってプライベートにも干渉されたらやだな……って思いまして。勿論、恵が厳選した男友達なので、それぞれ彼女がいる人だし変な空気にはならない人たちです。恵も『個人バイト』って言ってくれていたので、向こうもそのつもりだったと思いますし……。念には念をです」

《偉い、偉い。速水スタンプ十個やる》

「えっ、何それ。スタンプカード埋まったら何がもらえます?」

 冗談に食いつくと、尊さんはニヤッと笑った。

《スタンプ五個でハグ。十個でほっぺにキス。その後、五ポイントずつで要相談の、姫抱っこやドライヤー、色んなマッサージとか》

「ちょ……っ、色んなマッサージ……っ!」

 込められた意味を察して、私はケラケラ笑う。

《……っていうのは冗談として、ちゃんと線引きしてたのはマジで偉い。……でも、その人たちを疑うとか、嫉妬してるとかじゃなく、俺が業者手配しておくよ。今回は俺と同棲するための引っ越しだし、その人たちに手伝ってもらうのは少し違うから》

「ですね。そうします。宜しくお願いします。……じゃあ、ボチボチ、時間をみて片付けを始めますね。恵にも手伝ってもらおうかな」

《俺も手伝うよ。最後に綺麗にしないとなんねぇし、プロに声かけてピカピカに掃除して、退去する時に文句言わせねぇようにしとく。立ち会いの時も付き添うからな。朱里一人で舐められて、ふっかけられたら困るから》

「ありがとうございます」

 物件には色んな所があって、中には退去する時に高額請求される事もあるので、そのあたり、悔しいけど女一人だと本当に舐められかねない。

 尊さんがいたら契約書を読んだ上で、法律やらと照らし合わせてしっかり反論してくれるかもしれない。

 ……まぁ、契約通りだったらしょうがないけど。

「……こういう時、恋人がいると便利なんですね。や、便利って語弊がありますけど」

《女性が舐められるのは事実だから、可能なら男が一緒にいて手助けするのは当然だろ。……っていうか、今まで田村クンは?》

 尋ねられ、私は一瞬気まずく黙る。

 それだけで尊さんは察したようだった。

《……引っ越し、手伝ってくれなかったのか?》

「一応、手伝ってはくれました。……ただ、気が向いた時に来る感じだったかな。やってほしかったわけじゃないですけど、力仕事を率先してやる雰囲気じゃなかったです。……むしろ、面倒臭そうだったというか……」

《なるほど》

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