部長と私の秘め事
「『銀座 喜ね屋』の大将、喜多久邦重さん、いらっしゃいました~!」
彼女と一緒に実験室に入ってきたのは、テレビ番組にも出ているイケメン大将三十八歳だ。
料理人としての下積みを経て、異例の若さで自分の店を持ち、グルメガイドで星をもらうなどの快挙を成し遂げている凄い人である。
「こんにちは、どうぞ宜しくお願いします」
喜多久さんが爽やかに微笑みかけると、女性社員が一気に華やいだ。
今回の企画は『銀座 喜ね屋』さんとのコラボ企画で、これから春を迎えるにあたって、一人暮らしを始める人が、お家で美味しい料理を気軽に食べられるように……との趣旨になっている。
「皆さん、どうぞそのまま手を止めずに」
喜多久さんは自分もスモックやマスクをつけながら、実験室内にいる社員たちに声を掛ける。
彼の後ろには尊さんがいて、彼も実験室に入って一緒に様子を見るみたいだ。
綾子さんはニッコニコしながら、喜多久さんに説明をしている。
(曲がりなりにも部長のファンを公言してるのに、彼の前で喜多久さんにデレデレしちゃうの凄いな)
彼女を応援している訳じゃないのに、イケメンなら誰でもいいのかと思うと、何となくスンッとなってしまう。
喜多久さんと同じようにスモック等を身につけた尊さんは、彼と話をしながら商品開発の様子を見守っていた。
(こんなふうに仕事できるのも、あと少しなんだな。っていうか、新しい部長って誰がなるんだろう。……成田課長が繰り上がる?)
そう思うと、「うーん!」となってしまった。
四十四歳の成田課長は、悪い人ではないんだけどちょっと苦手なタイプだ。
部署内そのものは、庭師尊さんのお陰で雰囲気がいいものの、成田課長は感情にムラが多い。不機嫌な時はすぐ分かるし、そういう日はお小言が多くなる。
既婚者で子供もいるからか、尊さんに対して『あれぐらいで部長になれるなら、俺にだって……』と思っていそうで、彼にちょっと舐めた態度もとる。
加えて尊さんがいい事を言うと、後日自分の言葉のように自慢げに同じ事を言う。
中身が伴ってないから、その言葉の薄っぺらさときたら……。
加えて体育会系の係長とも馬が合わず、『上司も部下も若造で、ここでまともな上司は俺しかいない』と考えているのも丸わかりだ。
(尊さんがいるから、この部署は和気藹々とやってこられたんだけどな……)
これからの事を考えると気が重たく、私は無意識にまた溜め息をついていた。
「いい色ですね。美味しそうだ」
――と、斜め後ろから声を掛けられ、思考に没頭していた私はビクッと肩を跳ねさせた。
「あっ、ありがとうございます!」
考え事をしているうちに喜多久さんが来たようで、私はぺこりと彼に頭を下げる。
「味見してみても?」
「はい」
言われて、私は未使用のスプーンと小皿を用意し、煮物の汁をひとすくい小皿にとる。
喜多久さんは小皿を傾けて汁の色を見たあと、煮汁を口に入れて目を閉じた。
わぁ……、プロに味見してもらってると思うと、ドキドキする……。
すぐ側に綾子さんもいるので、尊さんをチラリとも見る事すら許されない。
色んな意味で緊張していると、喜多久さんが「うん」と頷き目を開ける。
「悪くないけど……」
そのあとに味の感想を言われ、調整案を出されたあと、あとから改めてできあがった物を食べてもらう事になった。
大名行列みたいなのが通り過ぎたあと、恵がボソッと言う。
「喜多久さん、結構焼けてるね。テレビにも出てるし、ジム行って日焼けサロン行って……ってしてるのかな。エステも行ってそう」
「かもねー」
基本的に他人に興味のない私は、適当に相槌を打ってから再度自分でも味見し、喜多久さんが求めている味を想像して、次作の方向性に見当をつけていく。
恵はメモしている私をジーッと見ていたけれど、やがて顔を寄せてコソコソと囁いてきた。
「おぬし、分かってる? バレンタインまであと少しだよ。あんたもエステ予約入れたら?」
「んっふ!」
言われた言葉があまりにも突然で、私は口の中に微かに残っていた煮汁に噎せた。
またジロリと恵を睨むと、彼女は愉快そうな顔をして私の反応を見ている。
「何か案はあるの?」
「んー、一応、美味しいと噂のお高級なチョコレートを、幾つかピックアップしてるけど」
バレンタインは平日だけど、十日から十二日まで連休があるので、そろそろ尊さんが何か言ってくるのでは……と目星をつけている。
でも自分から聞いても、おねだりしてるみたいでなんだかなぁ……、と変な遠慮を抱いてしまい、触れられずにいる。
「彼、グルメだからチョコレート一つにしてもうるさそうだね」
恵が鼻で嗤うので、私は彼女をつんと肘でつついておく。
「そこまで意地悪じゃないよ。どこの姑を想像してるのかね、君は」
冗談めかして言ったあと、私は溜め息をつき、小さな声で言う。
「……ただ、別の意味でうるさそうだから、お給料出たらちょっといい下着を買おうかと思ってるけど……」
そういうと、恵は真顔になったあと、口で「ひゅ~」と言ってきた。
「もう……、その反応」
私はボソッと突っ込んだあと、暑さを覚えて手で顔を仰ぐ。
さっきからずっと体がポカポカ熱くて、頭がボーッとしてる。多分コンロの近くにいて、顔周りもスッポリ覆っているからだと思うけど。
(あと、生理始まってちょっとやな感じがしてるんだよな……)
昭人戦が終わって家に帰ったあと、なんか調子悪いと思ったら案の定、生きる理を見いだしていた。
(前日に尊さんとエッチできて良かったけど、やけにムラムラしてたと思ったら、生理前だったからか……)
なんとなく生理痛のジャブみたいなのがきていて、腹痛というほどじゃないけど、モヤモヤした感覚が下腹にある。
(今、商品開発の大事な時期だから、なるべく休みたくないんだよな。これ以上重たくなりませんように)
私は無意識に眉間に皺を寄せながら、そのあとも実験室での仕事に取り組んだ。
――けど。
(やばい。これ絶対熱ある)
実験室での仕事を始めたのが午後になってからで、片づけを始めたのが十八時半を超してからだった。
篠宮ホールディングスは大きい会社なので社内施設もしっかりしていて、医務室や休憩室もある。
ただ保健師さんの勤務時間もあるので、体温計を借りたくても医務室が開いてるかどうかだけど……。
私はフラフラしたまま片付けをし、終わったあとはマスクをつけたまま、部署に荷物を取りに戻った。
フロアにはまばらに人が残っていて、皆帰り支度をしている。
チラッと部長室を見ると、尊さんはまだデスクについていた。
帰り支度をしてスマホを開くと、尊さんからメッセージが入っている。
【なんか調子悪そうだけど、大丈夫か?】
気づいていたらしく、さすが……と思ったけれど、仕事に関わってくるので下手な返事はしたくない。
婚約者として心配させてしまったら、尊さんは絶対大事をとって私を休ませたがるに決まっている。
熱だって一日で下がるかもしれないし、生理だって軽く済むかもしれない。
だから変に彼を心配させたくなかった。
【大丈夫です。今日は帰りますね】
他に言いようがあったかもしれないけど、体調が悪くて最適な答えを考える余裕がない。
そっけないかもしれない返事をしたあと、私は帰路に着いた。
**
彼女と一緒に実験室に入ってきたのは、テレビ番組にも出ているイケメン大将三十八歳だ。
料理人としての下積みを経て、異例の若さで自分の店を持ち、グルメガイドで星をもらうなどの快挙を成し遂げている凄い人である。
「こんにちは、どうぞ宜しくお願いします」
喜多久さんが爽やかに微笑みかけると、女性社員が一気に華やいだ。
今回の企画は『銀座 喜ね屋』さんとのコラボ企画で、これから春を迎えるにあたって、一人暮らしを始める人が、お家で美味しい料理を気軽に食べられるように……との趣旨になっている。
「皆さん、どうぞそのまま手を止めずに」
喜多久さんは自分もスモックやマスクをつけながら、実験室内にいる社員たちに声を掛ける。
彼の後ろには尊さんがいて、彼も実験室に入って一緒に様子を見るみたいだ。
綾子さんはニッコニコしながら、喜多久さんに説明をしている。
(曲がりなりにも部長のファンを公言してるのに、彼の前で喜多久さんにデレデレしちゃうの凄いな)
彼女を応援している訳じゃないのに、イケメンなら誰でもいいのかと思うと、何となくスンッとなってしまう。
喜多久さんと同じようにスモック等を身につけた尊さんは、彼と話をしながら商品開発の様子を見守っていた。
(こんなふうに仕事できるのも、あと少しなんだな。っていうか、新しい部長って誰がなるんだろう。……成田課長が繰り上がる?)
そう思うと、「うーん!」となってしまった。
四十四歳の成田課長は、悪い人ではないんだけどちょっと苦手なタイプだ。
部署内そのものは、庭師尊さんのお陰で雰囲気がいいものの、成田課長は感情にムラが多い。不機嫌な時はすぐ分かるし、そういう日はお小言が多くなる。
既婚者で子供もいるからか、尊さんに対して『あれぐらいで部長になれるなら、俺にだって……』と思っていそうで、彼にちょっと舐めた態度もとる。
加えて尊さんがいい事を言うと、後日自分の言葉のように自慢げに同じ事を言う。
中身が伴ってないから、その言葉の薄っぺらさときたら……。
加えて体育会系の係長とも馬が合わず、『上司も部下も若造で、ここでまともな上司は俺しかいない』と考えているのも丸わかりだ。
(尊さんがいるから、この部署は和気藹々とやってこられたんだけどな……)
これからの事を考えると気が重たく、私は無意識にまた溜め息をついていた。
「いい色ですね。美味しそうだ」
――と、斜め後ろから声を掛けられ、思考に没頭していた私はビクッと肩を跳ねさせた。
「あっ、ありがとうございます!」
考え事をしているうちに喜多久さんが来たようで、私はぺこりと彼に頭を下げる。
「味見してみても?」
「はい」
言われて、私は未使用のスプーンと小皿を用意し、煮物の汁をひとすくい小皿にとる。
喜多久さんは小皿を傾けて汁の色を見たあと、煮汁を口に入れて目を閉じた。
わぁ……、プロに味見してもらってると思うと、ドキドキする……。
すぐ側に綾子さんもいるので、尊さんをチラリとも見る事すら許されない。
色んな意味で緊張していると、喜多久さんが「うん」と頷き目を開ける。
「悪くないけど……」
そのあとに味の感想を言われ、調整案を出されたあと、あとから改めてできあがった物を食べてもらう事になった。
大名行列みたいなのが通り過ぎたあと、恵がボソッと言う。
「喜多久さん、結構焼けてるね。テレビにも出てるし、ジム行って日焼けサロン行って……ってしてるのかな。エステも行ってそう」
「かもねー」
基本的に他人に興味のない私は、適当に相槌を打ってから再度自分でも味見し、喜多久さんが求めている味を想像して、次作の方向性に見当をつけていく。
恵はメモしている私をジーッと見ていたけれど、やがて顔を寄せてコソコソと囁いてきた。
「おぬし、分かってる? バレンタインまであと少しだよ。あんたもエステ予約入れたら?」
「んっふ!」
言われた言葉があまりにも突然で、私は口の中に微かに残っていた煮汁に噎せた。
またジロリと恵を睨むと、彼女は愉快そうな顔をして私の反応を見ている。
「何か案はあるの?」
「んー、一応、美味しいと噂のお高級なチョコレートを、幾つかピックアップしてるけど」
バレンタインは平日だけど、十日から十二日まで連休があるので、そろそろ尊さんが何か言ってくるのでは……と目星をつけている。
でも自分から聞いても、おねだりしてるみたいでなんだかなぁ……、と変な遠慮を抱いてしまい、触れられずにいる。
「彼、グルメだからチョコレート一つにしてもうるさそうだね」
恵が鼻で嗤うので、私は彼女をつんと肘でつついておく。
「そこまで意地悪じゃないよ。どこの姑を想像してるのかね、君は」
冗談めかして言ったあと、私は溜め息をつき、小さな声で言う。
「……ただ、別の意味でうるさそうだから、お給料出たらちょっといい下着を買おうかと思ってるけど……」
そういうと、恵は真顔になったあと、口で「ひゅ~」と言ってきた。
「もう……、その反応」
私はボソッと突っ込んだあと、暑さを覚えて手で顔を仰ぐ。
さっきからずっと体がポカポカ熱くて、頭がボーッとしてる。多分コンロの近くにいて、顔周りもスッポリ覆っているからだと思うけど。
(あと、生理始まってちょっとやな感じがしてるんだよな……)
昭人戦が終わって家に帰ったあと、なんか調子悪いと思ったら案の定、生きる理を見いだしていた。
(前日に尊さんとエッチできて良かったけど、やけにムラムラしてたと思ったら、生理前だったからか……)
なんとなく生理痛のジャブみたいなのがきていて、腹痛というほどじゃないけど、モヤモヤした感覚が下腹にある。
(今、商品開発の大事な時期だから、なるべく休みたくないんだよな。これ以上重たくなりませんように)
私は無意識に眉間に皺を寄せながら、そのあとも実験室での仕事に取り組んだ。
――けど。
(やばい。これ絶対熱ある)
実験室での仕事を始めたのが午後になってからで、片づけを始めたのが十八時半を超してからだった。
篠宮ホールディングスは大きい会社なので社内施設もしっかりしていて、医務室や休憩室もある。
ただ保健師さんの勤務時間もあるので、体温計を借りたくても医務室が開いてるかどうかだけど……。
私はフラフラしたまま片付けをし、終わったあとはマスクをつけたまま、部署に荷物を取りに戻った。
フロアにはまばらに人が残っていて、皆帰り支度をしている。
チラッと部長室を見ると、尊さんはまだデスクについていた。
帰り支度をしてスマホを開くと、尊さんからメッセージが入っている。
【なんか調子悪そうだけど、大丈夫か?】
気づいていたらしく、さすが……と思ったけれど、仕事に関わってくるので下手な返事はしたくない。
婚約者として心配させてしまったら、尊さんは絶対大事をとって私を休ませたがるに決まっている。
熱だって一日で下がるかもしれないし、生理だって軽く済むかもしれない。
だから変に彼を心配させたくなかった。
【大丈夫です。今日は帰りますね】
他に言いようがあったかもしれないけど、体調が悪くて最適な答えを考える余裕がない。
そっけないかもしれない返事をしたあと、私は帰路に着いた。
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