部長と私の秘め事
 三月半ば、私と尊さんはダイニングテーブルに向かい合って座り、ビールで乾杯した。

 今日はお刺身の日で、テーブルの中央にはあしらいを使って盛り付けられたお刺身が、綺麗に並んでいる。

 副菜はナスの煮浸しで、キュウリとしらすの酢の物もある。お味噌汁は絹ごし豆腐とあおさで、私はニコニコしてお箸を手にする。

「なんだかんだで、決意してくれてありがとう」

 尊さんに微笑まれ、私はピシッと背筋を伸ばす。

「これからは速水副社長を誠心誠意、お支えしていきたいと思います」

 ビジネスモードになった私の言葉を聞き、尊さんはクスクス笑い、不意に真顔になると「そうだ」と話し始めた。

「怜香の事件以降、俺が篠宮家の者である事が公になった。今後、篠宮家は俺の存在を認め、俺は〝篠宮副社長〟として就任する事になる」

「あ……」

 私は軽く瞠目し、声を漏らす。

 そもそも尊さんが速水と名乗っていたのは、怜香さんが「篠宮家の一員と認めない」と言って、誰も異を唱えられずにいたからだ。

 有志さんは本当なら尊さんに篠宮の姓を名乗らせたかっただろうけど、夫に浮気された怜香さんの顔を立てたのだろう。

「良かったですね」

 複雑な彼の心境を思うと、こう言うのが正解なのか分からない。

 でもここで怜香さんの悪口を言うのはちょっと違う。

 尊さんが晴れない想いを常に抱えているのは分かっているけれど、彼はあえて黒い感情に目を向けず、私との時間を大切にし、楽しい事を考えようとしている。

 嫌な事って、話題に出さず思い出さなければ、なんとか紛れていくものだ。

 逆に本人が「気にしない」と言っても、お節介な周りが話題にすれば、気にしないはずなのに何度も思いだす事になり、同調して愚痴が増えてしまう。

 一月六日の出来事のあと、尊さんはもっと愚痴を言うと思っていた。

 けれど尊さんは決着をつけたあと、過去に別れを告げるように、なるべく怜香さんの話題を口にしないように努めている。

 必要があればコメントするけれど、自分から積極的に愚痴や怨念めいた言葉は言わない。

 私の見えないところで尊さんの葛藤があり、血の滲むような努力がある。

 そう思うと、怜香さんを悪く言って尊さんの同意を引き出させるのは、彼の努力を無にする行為だと思った。

 時には愚痴を吐いたほうが、スッキリする事もあるかもしれない。

 尊さんだって私に何かあった時、『なんでも言ってみろ。聞くから』と言ってくれる。

 でも変えようのないつらい過去って、思い出すたびに自分を傷つけているようなものだ。

 失ったものが大きく、取り返しがつかないからこそ、尊さんは深く傷付いている。

 けれど怜香さんへの悪口を言い、不幸を願ったからといって、お母さんと妹さんが生き返る訳じゃない。

 呪いの言葉を口にするほど、尊さんは黒い感情に支配された自分を恥じるだろう。

『俺を闇からすくい上げてくれた、朱里に相応しい男になりたい』

 以前彼はそう言い、自分のためにも私のためにも、努めて〝善く〟あろうとしている。

 だから私は「怜香さんのせいで篠宮と名乗れなかったのに……」と言いたかったのを、グッと堪えた。

 尊さんはビールを一口飲み、頷く。

「存在を認められていなかった俺が、篠宮家の子として副社長になるんだから、一応『良かった』のかな。……でも本音を言えば、割とどうでもいいかな。『今さらかよ』と呆れる気持ちもあるし、名字が変わっても普通に働いていくだけだ。ま、当面取引先相手には名字の事で色々言われて対応が面倒だろうけど」

「確かに、会うたびに言われそうですね」

「〝訳あり〟の対応をされるのは慣れてるから、いつも通りやってくよ」

 彼は首を竦めて悪戯っぽく笑い、ナスの煮浸しを食べて「美味いな」と呟く。

「町田さんの技が今日も光ってます。アグリーです」

 私は同意して同じ物を食べ、親指を立てる。

「アグリーとか、正直面倒だよな。日本人なんだから日本語使えっての」

 尊さんは私が意図した方向に話を振り、私は「でしょ!」と笑ってたわいもない話をしていく。

 楽しく会話をしながら、私はいつか彼がつらい事、面倒な事を「慣れている」と言わなくなったらいいなと思っていた。

 ――この人は、世界一幸せにならないといけない人だ。

 ――私が幸せにしてみせる。

 そう思いながら、私は新鮮で美味しいお刺身を食べて「ボーノ!」と指で頬をクリクリとつついた。

「ボーノでブラビッシモなところ悪いけど、週末デートしないか?」

「する!」

 私は前のめりになって返事をする。

「ほら、木曜日ホワイトデーだろ」

「あっ」

 声を上げると、尊さんはジトォ……と見てきた。

「おい、忘れてたのか。ここぞとばかりにプレゼントをねだる日だろ」

「いやぁ、そういうのはあまり考えてなかったです。バレンタインをあげたら、プシュッと気が抜けてしまって」

「無欲な女だな。そういうところが魅力的ではあるけど、もっと『ブランドバッグ買って』とかおねだりしてほしさはあるな」

「パパ活……」

「おいー……」

 尊さんはガックリとうなだれ、ハァ……と溜め息をつく。

「じゃあ、お肉ご馳走してください。『ガツンとステーキ』みたいなやつ」

「……A5ランクのやつとかは?」

「……またパパ活みたいな事言う……。若者は質より量なんです」

「ホワイトデーにガーリック効いたステーキかよ……。色気ねぇな」

「ふふん? 夜にニンニク臭をぷーんとさせながら、誘ってさしあげますよ。速水尊ニンニク耐久一本勝負! みたいな」

「ガスマスクつけて抱くかな……」

「あははははは!」

 軽口の叩き合いに我慢できなくなった私は、とうとう笑い始めた。

 尊さんは笑っている私を見て微笑み、食事の続きに取りかかる。

「……俺、こういう何気ない時間が一番幸せだよ」

「私もです。これからも毎日一緒にご飯食べましょうね」

「俺、朱里の食いっぷりが好きなんだよな」

「ほら、そうやってすぐ食いしん坊にもってくー」

 ブスーッと膨れると、尊さんはおかしそうに笑った。



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