部長と私の秘め事
力なく言った彼女は、ずっとこうして謝りたかったのではないだろうか。
きっとその謝罪はさゆりさんと、一度も顔を見る事なく亡くしてしまった、あかりちゃんにも向けられている。
尊さんは深い悔恨の籠もった言葉を聞き、ゆっくり息を吸い、吐く。
沈黙した彼は、どう言うべきか考えているようだった。
「許さない」なんて言わないと思うけど、「気にしないでください」と言うにも、二人の間には色々ありすぎた。
たった一言でこの二十二年、百合さんにとってはそれ以上の年月を語る事はできない。
とても大切な場面だからこそ、言葉を大事にしている尊さんは、なんと言うべきか迷っているのだと思う。
やがて彼は小さく溜め息をつき、切なげに笑う。
「……すみません、色んな想いがあって。勿論、許さないとかじゃないんです。今日こうして押しかけたにも拘わらず、『出ていけ』と言わず受け入れてくれた事は感謝しています」
きっと尊さんの胸にこみ上げているのは、篠宮家で味わった屈辱と悲しみ、憎しみだ。
篠宮家に引き取られる運命は変えられなかったとしても、もっと早くに速水家の人たちと関わっていれば、尊さんはここまで酷い扱いを受けなかったかもしれない。
彼は望まなかったかもしれないけれど、速水家の人たちに訴えれば、虐待が改善されたかもしれない。
今さら何を言っても「たられば」にしかならないけれど……。
尊さんはそっと息を吐き、小さく笑う。
「……こうして話せるまで、長かったなと感じています。母は実家の事をあまり語りませんでしたが、身内の事を一度も悪く言った事はありませんでした」
それを聞き、百合さんは安堵したように表情を緩める。
「むしろ『自分は悪い事をしたから、せめて残る人生は清く正しくありたい』と言って、俺と妹にも人を憎まず誠実に、正直に生きてほしいと願っていました」
彼の言葉を聞いて、私は視線を落とす。
篠宮家でどれだけいい子に過ごしても、彼はまったく報われなかった。
怜香さんに然るべき報復をしたあと、尊さんは必要以上に糾弾せず、悪循環に陥らないように彼女の事を考えないようにしていた。
その高潔ともいえる姿勢は、すべてさゆりさんの教えからだった。
けれどさゆりさんが『悪い事をした』と思っていただなんて……。
(悪いのは優柔不断な亘さんなのに)
尊さんの実父だから、できる事なら憎みたくない。
本人だって『悪い事をした』と思っているだろうし、尊さんに申し訳なさを感じていると思う。
一月に怜香さんが断罪されたあと、亘さんは社長を辞任する事も受け入れたし、今後妻に向き合っていく覚悟も決めた。
でも、彼の過ちが引き起こした不幸はあまりに大きすぎ、色んな人の運命を狂わせ、悲しみを生んだ。
何度だって〝たられば〟を考えてしまうけれど、すべてなかった事になれば、尊さんは生きていない。
(……でも、さゆりさんが『悪い事をした』って思う必要はないんだよ)
心の中で呟いた時、それまで事を静観していた将馬さんが口を開いた。
「結果的にさゆりは篠宮さんの浮気相手になり、世間的に褒められた立場にないだろう。……だが私たちから見れば、好きな人と一緒になろうとすべてを捨てて決意したのに、捨てられてしまった可哀想な子だ。まじめで優しい子だから、自分を責めてそう考えるようになってしまったのだろう。……だがさゆりがそう思う必要はないんだ」
彼がしんみりとした声で言ったあと、誰かがズッと洟を啜った。
少し経ったあと、尊さんは微笑んで言った。
「……良かったらこれからは祖父母として接していただけたら嬉しいです。母と妹の分、俺に孝行させてください」
彼の言葉を聞き、百合さんと将馬さんは微笑んで頷いた。
「喜んで。私たちにも孫を大切にさせてちょうだい」
そのあと、尊さんが「仏壇に手を合わせてもいいですか?」と言い、百合さんは私たちを仏間にいざなった。
和室には立派な仏壇があり、天井近くには恐らく亡くなった頃のさゆりさん、あかりちゃんの遺影があった。
「ちえりが写真を撮ってくれていたの。当時は私に叱られると思ったのか何も言わなかったけれど、写真があって本当に良かったわ。……あかりにも会ってみたかった」
大きな座布団に正座した百合さんは、線香に火を付けて香炉に立て、おりんを鳴らす。
そのあと手を合わせて娘と孫に拝み、尊さんに場所を譲った。
ジャケットの内ポケットから数珠を取りだした尊さんは、しばらく手を合わせて遺影や位牌を見つめていた。
それから丁寧に線香に火を付けて香炉に立て、おりんを鳴らして手を合わせる。
私は彼の斜め後ろに座り、周囲の空気を震わせる音の余韻を聞きながら、正座した尊さんを見てからお二人の遺影を見上げた。
――やっとここまでこられた。
きっとその謝罪はさゆりさんと、一度も顔を見る事なく亡くしてしまった、あかりちゃんにも向けられている。
尊さんは深い悔恨の籠もった言葉を聞き、ゆっくり息を吸い、吐く。
沈黙した彼は、どう言うべきか考えているようだった。
「許さない」なんて言わないと思うけど、「気にしないでください」と言うにも、二人の間には色々ありすぎた。
たった一言でこの二十二年、百合さんにとってはそれ以上の年月を語る事はできない。
とても大切な場面だからこそ、言葉を大事にしている尊さんは、なんと言うべきか迷っているのだと思う。
やがて彼は小さく溜め息をつき、切なげに笑う。
「……すみません、色んな想いがあって。勿論、許さないとかじゃないんです。今日こうして押しかけたにも拘わらず、『出ていけ』と言わず受け入れてくれた事は感謝しています」
きっと尊さんの胸にこみ上げているのは、篠宮家で味わった屈辱と悲しみ、憎しみだ。
篠宮家に引き取られる運命は変えられなかったとしても、もっと早くに速水家の人たちと関わっていれば、尊さんはここまで酷い扱いを受けなかったかもしれない。
彼は望まなかったかもしれないけれど、速水家の人たちに訴えれば、虐待が改善されたかもしれない。
今さら何を言っても「たられば」にしかならないけれど……。
尊さんはそっと息を吐き、小さく笑う。
「……こうして話せるまで、長かったなと感じています。母は実家の事をあまり語りませんでしたが、身内の事を一度も悪く言った事はありませんでした」
それを聞き、百合さんは安堵したように表情を緩める。
「むしろ『自分は悪い事をしたから、せめて残る人生は清く正しくありたい』と言って、俺と妹にも人を憎まず誠実に、正直に生きてほしいと願っていました」
彼の言葉を聞いて、私は視線を落とす。
篠宮家でどれだけいい子に過ごしても、彼はまったく報われなかった。
怜香さんに然るべき報復をしたあと、尊さんは必要以上に糾弾せず、悪循環に陥らないように彼女の事を考えないようにしていた。
その高潔ともいえる姿勢は、すべてさゆりさんの教えからだった。
けれどさゆりさんが『悪い事をした』と思っていただなんて……。
(悪いのは優柔不断な亘さんなのに)
尊さんの実父だから、できる事なら憎みたくない。
本人だって『悪い事をした』と思っているだろうし、尊さんに申し訳なさを感じていると思う。
一月に怜香さんが断罪されたあと、亘さんは社長を辞任する事も受け入れたし、今後妻に向き合っていく覚悟も決めた。
でも、彼の過ちが引き起こした不幸はあまりに大きすぎ、色んな人の運命を狂わせ、悲しみを生んだ。
何度だって〝たられば〟を考えてしまうけれど、すべてなかった事になれば、尊さんは生きていない。
(……でも、さゆりさんが『悪い事をした』って思う必要はないんだよ)
心の中で呟いた時、それまで事を静観していた将馬さんが口を開いた。
「結果的にさゆりは篠宮さんの浮気相手になり、世間的に褒められた立場にないだろう。……だが私たちから見れば、好きな人と一緒になろうとすべてを捨てて決意したのに、捨てられてしまった可哀想な子だ。まじめで優しい子だから、自分を責めてそう考えるようになってしまったのだろう。……だがさゆりがそう思う必要はないんだ」
彼がしんみりとした声で言ったあと、誰かがズッと洟を啜った。
少し経ったあと、尊さんは微笑んで言った。
「……良かったらこれからは祖父母として接していただけたら嬉しいです。母と妹の分、俺に孝行させてください」
彼の言葉を聞き、百合さんと将馬さんは微笑んで頷いた。
「喜んで。私たちにも孫を大切にさせてちょうだい」
そのあと、尊さんが「仏壇に手を合わせてもいいですか?」と言い、百合さんは私たちを仏間にいざなった。
和室には立派な仏壇があり、天井近くには恐らく亡くなった頃のさゆりさん、あかりちゃんの遺影があった。
「ちえりが写真を撮ってくれていたの。当時は私に叱られると思ったのか何も言わなかったけれど、写真があって本当に良かったわ。……あかりにも会ってみたかった」
大きな座布団に正座した百合さんは、線香に火を付けて香炉に立て、おりんを鳴らす。
そのあと手を合わせて娘と孫に拝み、尊さんに場所を譲った。
ジャケットの内ポケットから数珠を取りだした尊さんは、しばらく手を合わせて遺影や位牌を見つめていた。
それから丁寧に線香に火を付けて香炉に立て、おりんを鳴らして手を合わせる。
私は彼の斜め後ろに座り、周囲の空気を震わせる音の余韻を聞きながら、正座した尊さんを見てからお二人の遺影を見上げた。
――やっとここまでこられた。