部長と私の秘め事
「恵ちゃんは会社でセクハラに遭ってない?」
と、涼さんが少し心配そうに尋ねてくる。
「ないですね。少なくとも物凄く憤慨するほど嫌な目には遭っていません。少し前までは篠宮さんが部長だったから、そういうのが発生しそうだったら未然に防いでくれていたんです。……朱里に執拗に接触しようとする困った係長がいたんですが、何かと篠宮さんが緩衝材になってくれていました。……あとは、『その人の性格かな?』って程度に当たられた事は多少ありますが、大して気にしていません。そういうのも、篠宮さんが目ざとく変化を察知して、飲みに誘う体でストレスやら悩み事を聞いて解消して、そのうち毒気が抜けたようにいい人になってるんですよね。……こう言ったら悔しいですけど、非常に優秀な部長だったと思いますよ」
「……まぁね、俺の自慢の親友だから」
涼さんは少し嬉しそうに言う。
「あいつ、育った境遇の割りには凄く性格がいいと思うよ。何かあっても『母と妹が望んでいると思うから』と言って我慢して、その姿を痛々しく感じる時はあった。……本当なら理不尽な事があったらもっと怒りを示して、私的な場でなら暴れてもいいのに、尊はすべてを自分の中に押し込んでいた。……こう言ったら悪いけど、その『母が望んでいるから』というのが、一種の呪いみたいになっているように感じる事はあった。……でも結果的に尊はすべてに耐え抜いて〝立派な男〟になった。……痛みを伴う事ではあるけど、誇るべき結果と思っている」
「私も篠宮さんは苦労人だと思ってますから、幸せになってほしいなぁ……とは思っています。……朱里を渡すのはいまだにちょっと癪ですけど」
私は美味しいオレンジジュースを飲みながら言う。
と、涼さんがニヤリと笑って尋ねてきた。
「まだ朱里ちゃんに未練がある?」
「う……。み、未練っていうか……」
自分の朱里への感情は、刷り込みみたいなものだと言われて、すんなり受け入れるのは悔しいけど、最近は「そうかもしれない」と感じるようになってきた。
でも傷付きまくった当時、あの子だけが救いだった事は変わりない。
なんだかんだで、スッと澄ました綺麗な人から、愉快な一面を見られるようになるまで仲良くなれたし、この友情は一生ものだと思っている。
「勿論、彼女を大切に想う気持ちを軽んじている訳じゃないし、男女の仲と同性同士の友情は比べられるものじゃない。……ただ、朱里ちゃんが尊の手をとったように、恵ちゃんも俺の手をとって女性として幸せになろうと思えている? って聞きたかったんだ」
「そ……、そりゃあ……、結婚しようと思っていますから……」
照れてムスッとしつつ言うと、涼さんは機嫌良さそうに笑う。
「良かった。……少しずつ慣れていこうね。俺も……本当はこう……、ガバーッと押し倒して『好き好き好き好き』ってやりたい気持ちが物凄くあるけど、それをやってしまったら、恵ちゃんは怒ってしまいそうだから、めちゃくちゃ自分を抑えてる」
「……大型犬じゃないんですから」
私は思わずそう突っ込んでから、大型犬にベロベロ舐められてむっつりと怒っている猫を想像する。
そのあと鼻っ面に猫パンチをして、高い所に逃げるまでがワンセットだろう。
「この家での生活も慣れてきた?」
「……そうですね。……いまだに目が覚めるとホテルにいるような気持ちになって、現実味がないですけど。どこに何が置いてあるかとかも少しずつ把握してきたし、北原さんとも仲良くなれています。本当ならもっと動揺して、おっかなびっくり過ごしていると思いますが、周りの皆さんが優しくしてくれるから、何とかやれているんだと思います」
「ん、なら良かった。……そうだ。俺、暖かくなってきたら、ドライブがてらにサーフィンするんだけど、一緒にやってみない? 初心者だったら湘南とか白浜海岸がいいかな。そのあと、伊豆で温泉とかもいいねぇ……」
「はい?」
いきなり会話がポーンとすっ飛び、私は目を丸くする。
「俺、恵ちゃんとの相性を確認するために、色んな事をしてみたいんだ。恵ちゃん、割とアウトドアって言ってたでしょ? 一緒にキャンプもしたいし、色んなアクティビティをしてみたい。都内で買い物して高級レストランで食事……って、いつでもできるからね。それにもう、恵ちゃんはそういう事にはあまり興味がないって分かってるし」
「はぁ……、まぁ、そうっすね」
本当は私も人並みに〝良い物〟への憧れは持っている。
春日さんがご馳走してくれる高級料理は、申し訳なさを感じながらも皆で楽しく食べるので、いい体験になっていると感じている。
街中を歩いていて、ショーウィンドウのマネキンを見て『素敵な服だな』と感じる事はあるけれど、自分が着たら猫に小判だと感じているし、贅沢を知ったらなかなか元に戻れないと言われているから、下手に手を出さないようにしている。
目下、普段着は着回ししやすい、洗濯をしてもクタらない物を選びがちで、あとは趣味のソロキャンに必要な道具を少しずつ揃えるのが、自分の中の〝贅沢〟だ。
と、涼さんが少し心配そうに尋ねてくる。
「ないですね。少なくとも物凄く憤慨するほど嫌な目には遭っていません。少し前までは篠宮さんが部長だったから、そういうのが発生しそうだったら未然に防いでくれていたんです。……朱里に執拗に接触しようとする困った係長がいたんですが、何かと篠宮さんが緩衝材になってくれていました。……あとは、『その人の性格かな?』って程度に当たられた事は多少ありますが、大して気にしていません。そういうのも、篠宮さんが目ざとく変化を察知して、飲みに誘う体でストレスやら悩み事を聞いて解消して、そのうち毒気が抜けたようにいい人になってるんですよね。……こう言ったら悔しいですけど、非常に優秀な部長だったと思いますよ」
「……まぁね、俺の自慢の親友だから」
涼さんは少し嬉しそうに言う。
「あいつ、育った境遇の割りには凄く性格がいいと思うよ。何かあっても『母と妹が望んでいると思うから』と言って我慢して、その姿を痛々しく感じる時はあった。……本当なら理不尽な事があったらもっと怒りを示して、私的な場でなら暴れてもいいのに、尊はすべてを自分の中に押し込んでいた。……こう言ったら悪いけど、その『母が望んでいるから』というのが、一種の呪いみたいになっているように感じる事はあった。……でも結果的に尊はすべてに耐え抜いて〝立派な男〟になった。……痛みを伴う事ではあるけど、誇るべき結果と思っている」
「私も篠宮さんは苦労人だと思ってますから、幸せになってほしいなぁ……とは思っています。……朱里を渡すのはいまだにちょっと癪ですけど」
私は美味しいオレンジジュースを飲みながら言う。
と、涼さんがニヤリと笑って尋ねてきた。
「まだ朱里ちゃんに未練がある?」
「う……。み、未練っていうか……」
自分の朱里への感情は、刷り込みみたいなものだと言われて、すんなり受け入れるのは悔しいけど、最近は「そうかもしれない」と感じるようになってきた。
でも傷付きまくった当時、あの子だけが救いだった事は変わりない。
なんだかんだで、スッと澄ました綺麗な人から、愉快な一面を見られるようになるまで仲良くなれたし、この友情は一生ものだと思っている。
「勿論、彼女を大切に想う気持ちを軽んじている訳じゃないし、男女の仲と同性同士の友情は比べられるものじゃない。……ただ、朱里ちゃんが尊の手をとったように、恵ちゃんも俺の手をとって女性として幸せになろうと思えている? って聞きたかったんだ」
「そ……、そりゃあ……、結婚しようと思っていますから……」
照れてムスッとしつつ言うと、涼さんは機嫌良さそうに笑う。
「良かった。……少しずつ慣れていこうね。俺も……本当はこう……、ガバーッと押し倒して『好き好き好き好き』ってやりたい気持ちが物凄くあるけど、それをやってしまったら、恵ちゃんは怒ってしまいそうだから、めちゃくちゃ自分を抑えてる」
「……大型犬じゃないんですから」
私は思わずそう突っ込んでから、大型犬にベロベロ舐められてむっつりと怒っている猫を想像する。
そのあと鼻っ面に猫パンチをして、高い所に逃げるまでがワンセットだろう。
「この家での生活も慣れてきた?」
「……そうですね。……いまだに目が覚めるとホテルにいるような気持ちになって、現実味がないですけど。どこに何が置いてあるかとかも少しずつ把握してきたし、北原さんとも仲良くなれています。本当ならもっと動揺して、おっかなびっくり過ごしていると思いますが、周りの皆さんが優しくしてくれるから、何とかやれているんだと思います」
「ん、なら良かった。……そうだ。俺、暖かくなってきたら、ドライブがてらにサーフィンするんだけど、一緒にやってみない? 初心者だったら湘南とか白浜海岸がいいかな。そのあと、伊豆で温泉とかもいいねぇ……」
「はい?」
いきなり会話がポーンとすっ飛び、私は目を丸くする。
「俺、恵ちゃんとの相性を確認するために、色んな事をしてみたいんだ。恵ちゃん、割とアウトドアって言ってたでしょ? 一緒にキャンプもしたいし、色んなアクティビティをしてみたい。都内で買い物して高級レストランで食事……って、いつでもできるからね。それにもう、恵ちゃんはそういう事にはあまり興味がないって分かってるし」
「はぁ……、まぁ、そうっすね」
本当は私も人並みに〝良い物〟への憧れは持っている。
春日さんがご馳走してくれる高級料理は、申し訳なさを感じながらも皆で楽しく食べるので、いい体験になっていると感じている。
街中を歩いていて、ショーウィンドウのマネキンを見て『素敵な服だな』と感じる事はあるけれど、自分が着たら猫に小判だと感じているし、贅沢を知ったらなかなか元に戻れないと言われているから、下手に手を出さないようにしている。
目下、普段着は着回ししやすい、洗濯をしてもクタらない物を選びがちで、あとは趣味のソロキャンに必要な道具を少しずつ揃えるのが、自分の中の〝贅沢〟だ。