部長と私の秘め事
「……私、側に尊さんがいてくれる今こそ、これを乗り越えないといけないと思うんです。結婚する前だから、……全部乗り越えたい」
尊さんはギュッと私を抱き締め、ポンポンと背中を叩いた。
「朱里が勇気を出して前進するなら、俺は何でもする。お前のトラウマを解消する事はできないかもしれないけど、側にいるよ」
「ん……」
彼から勇気をもらった私は、目を閉じて上石神井に住んでいた頃を思い出す。
よく両親と一緒に石神井公園に行ったし、自転車で走り回っていた。
母と一緒に歩いてスーパーに行って、『おやつは一つだけ』って怒られたり。
父はそんな私と母を優しく見守ってくれる人だったと思う。
小学生までの記憶はすぐ思い出せるのに、中学校に上がったあとはぼんやりと霧に包まれたようだ。
恵や昭人と過ごしていた事や、学校で少し浮いていた事も思い出せる。
でも家庭で自分がどう過ごしていたのか、どう振る舞っていたのかは思い出せない。
今までは思い出せない事を放置していたけれど――。
「……尊さん」
「ん?」
「……私、前に住んでいた家の近くに行ってみたい。……上石神井の、……賃貸マンションがあった所」
それを聞き、尊さんは心配そうに眉を寄せた。
「ずっと避けてたけど、今が向き合う時なんだと思う。……ボロボロになるかもしれないし、思い出せないままかもしれない。……でも、行ってみないと分からない」
「……分かった。一緒に行こう」
私は応えてくれた尊さんの手を、ギュッと握る。
先日昭人にやられた、目の前にてるてる坊主をぶら下げられた光景が脳裏に蘇る。
紫陽花、蛙、カタツムリ、てるてる坊主、雨、傘、雨音、車のタイヤが水を跳ねる音……。
心の底に封じられていたものが、少しずつ動き出すのを感じた。
**
渋っている間に気持ちが変わるかもしれないので、翌日の日曜日、私は尊さんの車に乗せてもらって上石神井へ向かった。
有料駐車場に車を止めたあと、私たちは傘を差してゆっくりと歩き出す。
上石神井は都心に比べると高い建物が少なく、住宅地がメインだ。
団地もあり、学校もあるし、場所によっては畑もある。
コンビニやスーパーもあるし、駅周辺には飲食店もある。けれど他はこれといって目立つものはなく、のどかに過ごせる所だ。
私たち家族が住んでいた賃貸マンションは、駅から南側にあるエリアだ。
懐かしい風景を前にした私は、表情を強張らせて言葉少なになっていく。
かつての家に近づくにつれ、次第に足取りが重たくなっていった。
「……大丈夫か?」
「……ん……」
私は尊さんに声を掛けられてもそれしか答えられず、重たい足を動かす。
泣きたくなるほど懐かしい。
小学生当時の友達と、この通りを走ったのを思い出す。
習字教室にも通っていて、私は飛び級になるぐらい素質があったらしいけど、いつもふざけてばかりで先生に怒られていた。
『中学校に入ったら書道部に入ろうかな』と思っていたのも思い出す。
中学生は〝お姉さん〟に思えて、小学校を卒業したら自分たちが〝変わる〟ように感じていた。
小学校の校庭で駆けずり回っていた私は、球技や縄跳びが得意だった。
通学路にはいつも見守りのおばさんがいて、一度車道に飛び出しかけた時は怒られたっけ。
学校から帰ったら習い事や塾があったけど、放課後になると一気にテンションが上がった。
大きな通りを走り抜けて、角を曲がったところに――。
「……………………」
マンションの外観を目にした私は、その場に凍り付いたように立ち尽くした。
大して歩いた訳じゃないのに、呼吸が乱れてくる。
『朱里! 忘れ物!』
学校に行こうとしたら、五階のあのベランダから、母が私に声を掛けた。
家は2LDKで、カウンターキッチンのある十畳ぐらいのリビングダイニングに、六畳と四畳の部屋があった。
大きい部屋は夫婦の寝室で、もう一つの部屋は私の部屋になっていて、学習机やカラーボックスに入れられた漫画、子供用ベッドがあり、当時好きだったアイドルのポスターもあった。
……そうだ。私、子供の頃は男性アイドルが好きだった。
でも、色んなものに対しての興味が、いっさいなくなってしまったんだ。
習字も辞めたし、当時仲が良かった友達とも遊ばなくなった。
友達は心配して毎日のように迎えに来てくれたけど、私は閉じこもって自分の世界に籠もり、誰かに対応できる状態じゃなくなった。
尊さんはギュッと私を抱き締め、ポンポンと背中を叩いた。
「朱里が勇気を出して前進するなら、俺は何でもする。お前のトラウマを解消する事はできないかもしれないけど、側にいるよ」
「ん……」
彼から勇気をもらった私は、目を閉じて上石神井に住んでいた頃を思い出す。
よく両親と一緒に石神井公園に行ったし、自転車で走り回っていた。
母と一緒に歩いてスーパーに行って、『おやつは一つだけ』って怒られたり。
父はそんな私と母を優しく見守ってくれる人だったと思う。
小学生までの記憶はすぐ思い出せるのに、中学校に上がったあとはぼんやりと霧に包まれたようだ。
恵や昭人と過ごしていた事や、学校で少し浮いていた事も思い出せる。
でも家庭で自分がどう過ごしていたのか、どう振る舞っていたのかは思い出せない。
今までは思い出せない事を放置していたけれど――。
「……尊さん」
「ん?」
「……私、前に住んでいた家の近くに行ってみたい。……上石神井の、……賃貸マンションがあった所」
それを聞き、尊さんは心配そうに眉を寄せた。
「ずっと避けてたけど、今が向き合う時なんだと思う。……ボロボロになるかもしれないし、思い出せないままかもしれない。……でも、行ってみないと分からない」
「……分かった。一緒に行こう」
私は応えてくれた尊さんの手を、ギュッと握る。
先日昭人にやられた、目の前にてるてる坊主をぶら下げられた光景が脳裏に蘇る。
紫陽花、蛙、カタツムリ、てるてる坊主、雨、傘、雨音、車のタイヤが水を跳ねる音……。
心の底に封じられていたものが、少しずつ動き出すのを感じた。
**
渋っている間に気持ちが変わるかもしれないので、翌日の日曜日、私は尊さんの車に乗せてもらって上石神井へ向かった。
有料駐車場に車を止めたあと、私たちは傘を差してゆっくりと歩き出す。
上石神井は都心に比べると高い建物が少なく、住宅地がメインだ。
団地もあり、学校もあるし、場所によっては畑もある。
コンビニやスーパーもあるし、駅周辺には飲食店もある。けれど他はこれといって目立つものはなく、のどかに過ごせる所だ。
私たち家族が住んでいた賃貸マンションは、駅から南側にあるエリアだ。
懐かしい風景を前にした私は、表情を強張らせて言葉少なになっていく。
かつての家に近づくにつれ、次第に足取りが重たくなっていった。
「……大丈夫か?」
「……ん……」
私は尊さんに声を掛けられてもそれしか答えられず、重たい足を動かす。
泣きたくなるほど懐かしい。
小学生当時の友達と、この通りを走ったのを思い出す。
習字教室にも通っていて、私は飛び級になるぐらい素質があったらしいけど、いつもふざけてばかりで先生に怒られていた。
『中学校に入ったら書道部に入ろうかな』と思っていたのも思い出す。
中学生は〝お姉さん〟に思えて、小学校を卒業したら自分たちが〝変わる〟ように感じていた。
小学校の校庭で駆けずり回っていた私は、球技や縄跳びが得意だった。
通学路にはいつも見守りのおばさんがいて、一度車道に飛び出しかけた時は怒られたっけ。
学校から帰ったら習い事や塾があったけど、放課後になると一気にテンションが上がった。
大きな通りを走り抜けて、角を曲がったところに――。
「……………………」
マンションの外観を目にした私は、その場に凍り付いたように立ち尽くした。
大して歩いた訳じゃないのに、呼吸が乱れてくる。
『朱里! 忘れ物!』
学校に行こうとしたら、五階のあのベランダから、母が私に声を掛けた。
家は2LDKで、カウンターキッチンのある十畳ぐらいのリビングダイニングに、六畳と四畳の部屋があった。
大きい部屋は夫婦の寝室で、もう一つの部屋は私の部屋になっていて、学習机やカラーボックスに入れられた漫画、子供用ベッドがあり、当時好きだったアイドルのポスターもあった。
……そうだ。私、子供の頃は男性アイドルが好きだった。
でも、色んなものに対しての興味が、いっさいなくなってしまったんだ。
習字も辞めたし、当時仲が良かった友達とも遊ばなくなった。
友達は心配して毎日のように迎えに来てくれたけど、私は閉じこもって自分の世界に籠もり、誰かに対応できる状態じゃなくなった。