部長と私の秘め事
「フェリシア、照明を落として」
尊さんが命令すると浴室内の電気が暗くなり、何とも言えないリラックス感が全身を包む。
彼は後ろから私を抱き、時折頭部に唇を押しつけた。
「……落ち着いたか?」
何度目になるか分からない心配の声を掛けられ、私は「……ん……」と小さく頷く。
尊さんは私を抱いたまま、長く深い溜め息を吐いてから言った。
「……前に『野暮用がある』って一人で出かけた事があっただろ。……確か朱里が女子会に参加していた時だったかな」
「……うん」
「その時、朱里のお母さんに呼ばれて〝六月の事〟を聞いていたんだ」
私はギュッと身を強張らせ、尊さんの腕を抱き締める。
「……お父さんが亡くなったのは六月十五日。……澄哉さんは当時、ブラック企業と言っていい会社での過労と人間関係に悩んでいた」
「え……」
初めて聞いた事に私は目を見開き、尊さんを振り向く。
けれど暗い中で顔は見えず、「前向いて」と抱き直された。
「澄哉さんを追い詰めていたのは、『忙しい』の理由になっていた、休みがほぼない労働と、優しい気質の彼の性格を逆手に取った上司のいびりだった。話を伺った時にいびりの一環を聞いたけど、……まぁ、酷いもんだったよ。正当性のない『気に入らないから』という理由で、当時の上司は澄哉さんを他の社員の前で馬鹿にし、怒鳴りつけ、できあがった書類を投げ、若菜さんが作ったお弁当や、デスクの上の家族写真すら馬鹿にした」
私はいつの間にか涙を流しつつ、静かに尊さんの言葉を聞いていた。
「悔しい事だけど、世の中理不尽に他人に当たる奴がいる。『自分は上司だから誰も逆らえないだろう』と思っているが、威張り散らす相手は選んでいる。もしも朱里のお父さんが高身長で鍛えてムキムキなスポーツマンタイプだったら、そういう目には遭っていなかっただろう」
記憶の中の父は普通体型の優しげな人で、父が怒鳴ったり誰かに対して理不尽な要求をしている記憶はない。
「優しい人は搾取される。……でも、お父さんが加害者にならなかった事は、誇っていいと思うよ」
「ん……」
私はズッと洟を啜り、頷く。
「もう少し澄哉さんの視野が広かったら、そんな会社を辞めて今まで培ったスキルで他の会社で働き直す……とか思っただろう。家族を置いて死んでしまうのは、良くない選択だった。……でも、追い詰められた人は視野が狭くなってしまう。痛めつけられているのに、働く先はその会社しかないと思い込み、馬鹿にされ続けているから、すべて自分が悪いんだと思い込んでしまう。……客観的に見れば、そんな会社辞めて、パワハラに対しても然るべき機関に訴えるべきだ。……けど、澄哉さんは毎日のように叱責されて馬鹿にされ、人としての尊厳を失い、……判断力を大きく失っていたんだと思う」
「……そうですね。……尊さんみたいな人がお父さんの上司だったら良かったのに」
思わず叶わない「たられば」を口にしてしまうけれど、今さら何を言っても現実が変わる訳ではない。
「鬱病って、重度になると自力で何もできなくなってしまう。だから、中等症状の時に突発的な行動をとりやすいんだ。ネットで〝メンヘラ〟って呼ばれている人は、『死にたい』と事あるごとに言ったり、薬のオーバードーズをしたり、自傷行為をしている。彼らの痛みが分からない人は『ただの構ってちゃんだ』と言うけれど、それも一種のSOSなんだと俺は思ってる」
彼は溜め息をつき、ギュッと手に力を込める。
「俺も、母と妹を失った直後や、すべての元凶が怜香にあると知ったあとは、世界中のすべてを憎んでいた。心療内科に通ったし、カウンセリングを受けても毎回どうにもならない、やるせない想いばかり口にしていた。……前に進む力が出ない時は、自分の傷をほじくり返して、痛みの中でのたうちまわるしかできない。……それを見て、挫折した経験のない人は『異常だ』と言い、『あいつはいつも暗い事ばかり言っていて、付き合っていると気が滅入る』と言う。〝メンヘラ〟の人たちに『死なないで』と手を差し伸べていた人も、ずっと同じ泥沼から抜けられずにネガティブな事ばかり言っている姿を見て、自分の心のほうが耐えられないと判断して離れる。……誰だって自分の生活が一番大切だから、それは仕方がない事だと思う。助けようとした自分まで、蟻地獄の底まで引きずり込まれたら堪らないからな」
尊さんの言葉を聞いていると、まるで彼自身がそういう経験をしたように思える。
彼も家族を喪った――、殺された訳だし、私と同等の痛みを抱えていて当然だ。
それでも歯を食いしばって進むなか、どうしても恨みつらみが口を突いて出てしまう時期もあっただろう。
尊さんにそういう時期があってもおかしくないし、ネガティブをまき散らしていても責められない。
尊さんが命令すると浴室内の電気が暗くなり、何とも言えないリラックス感が全身を包む。
彼は後ろから私を抱き、時折頭部に唇を押しつけた。
「……落ち着いたか?」
何度目になるか分からない心配の声を掛けられ、私は「……ん……」と小さく頷く。
尊さんは私を抱いたまま、長く深い溜め息を吐いてから言った。
「……前に『野暮用がある』って一人で出かけた事があっただろ。……確か朱里が女子会に参加していた時だったかな」
「……うん」
「その時、朱里のお母さんに呼ばれて〝六月の事〟を聞いていたんだ」
私はギュッと身を強張らせ、尊さんの腕を抱き締める。
「……お父さんが亡くなったのは六月十五日。……澄哉さんは当時、ブラック企業と言っていい会社での過労と人間関係に悩んでいた」
「え……」
初めて聞いた事に私は目を見開き、尊さんを振り向く。
けれど暗い中で顔は見えず、「前向いて」と抱き直された。
「澄哉さんを追い詰めていたのは、『忙しい』の理由になっていた、休みがほぼない労働と、優しい気質の彼の性格を逆手に取った上司のいびりだった。話を伺った時にいびりの一環を聞いたけど、……まぁ、酷いもんだったよ。正当性のない『気に入らないから』という理由で、当時の上司は澄哉さんを他の社員の前で馬鹿にし、怒鳴りつけ、できあがった書類を投げ、若菜さんが作ったお弁当や、デスクの上の家族写真すら馬鹿にした」
私はいつの間にか涙を流しつつ、静かに尊さんの言葉を聞いていた。
「悔しい事だけど、世の中理不尽に他人に当たる奴がいる。『自分は上司だから誰も逆らえないだろう』と思っているが、威張り散らす相手は選んでいる。もしも朱里のお父さんが高身長で鍛えてムキムキなスポーツマンタイプだったら、そういう目には遭っていなかっただろう」
記憶の中の父は普通体型の優しげな人で、父が怒鳴ったり誰かに対して理不尽な要求をしている記憶はない。
「優しい人は搾取される。……でも、お父さんが加害者にならなかった事は、誇っていいと思うよ」
「ん……」
私はズッと洟を啜り、頷く。
「もう少し澄哉さんの視野が広かったら、そんな会社を辞めて今まで培ったスキルで他の会社で働き直す……とか思っただろう。家族を置いて死んでしまうのは、良くない選択だった。……でも、追い詰められた人は視野が狭くなってしまう。痛めつけられているのに、働く先はその会社しかないと思い込み、馬鹿にされ続けているから、すべて自分が悪いんだと思い込んでしまう。……客観的に見れば、そんな会社辞めて、パワハラに対しても然るべき機関に訴えるべきだ。……けど、澄哉さんは毎日のように叱責されて馬鹿にされ、人としての尊厳を失い、……判断力を大きく失っていたんだと思う」
「……そうですね。……尊さんみたいな人がお父さんの上司だったら良かったのに」
思わず叶わない「たられば」を口にしてしまうけれど、今さら何を言っても現実が変わる訳ではない。
「鬱病って、重度になると自力で何もできなくなってしまう。だから、中等症状の時に突発的な行動をとりやすいんだ。ネットで〝メンヘラ〟って呼ばれている人は、『死にたい』と事あるごとに言ったり、薬のオーバードーズをしたり、自傷行為をしている。彼らの痛みが分からない人は『ただの構ってちゃんだ』と言うけれど、それも一種のSOSなんだと俺は思ってる」
彼は溜め息をつき、ギュッと手に力を込める。
「俺も、母と妹を失った直後や、すべての元凶が怜香にあると知ったあとは、世界中のすべてを憎んでいた。心療内科に通ったし、カウンセリングを受けても毎回どうにもならない、やるせない想いばかり口にしていた。……前に進む力が出ない時は、自分の傷をほじくり返して、痛みの中でのたうちまわるしかできない。……それを見て、挫折した経験のない人は『異常だ』と言い、『あいつはいつも暗い事ばかり言っていて、付き合っていると気が滅入る』と言う。〝メンヘラ〟の人たちに『死なないで』と手を差し伸べていた人も、ずっと同じ泥沼から抜けられずにネガティブな事ばかり言っている姿を見て、自分の心のほうが耐えられないと判断して離れる。……誰だって自分の生活が一番大切だから、それは仕方がない事だと思う。助けようとした自分まで、蟻地獄の底まで引きずり込まれたら堪らないからな」
尊さんの言葉を聞いていると、まるで彼自身がそういう経験をしたように思える。
彼も家族を喪った――、殺された訳だし、私と同等の痛みを抱えていて当然だ。
それでも歯を食いしばって進むなか、どうしても恨みつらみが口を突いて出てしまう時期もあっただろう。
尊さんにそういう時期があってもおかしくないし、ネガティブをまき散らしていても責められない。