部長と私の秘め事
「……澄哉さんも、沢山愚痴や不満を口にしていたと思う。若菜さんに打ち明け、慰められ、友達や誰かに話を聞いてもらっていただろう。……それでも、周りの人が一生懸命、これ以上ないってぐらい慰めても、……本人には届かない場合もあるんだ。著しく傷つけられた自尊心の中で、それでも茨の道を歩き続けるか、『死んで楽になりたい』と思ってしまうかは、人それぞれだ」

 父の話をしているのに、尊さんの痛みも伝わってくるようで、涙が止まらない。

「自殺って『よし、死んでやる』って意気込んでするもんじゃないと思ってる。ある日突然限界が訪れて、すべてが麻痺したまま、淡々と準備を進めて何の感情もなく実行するんだ。そういう状態になったら、遺される家族の事なんて考えられない。……澄哉さんは、朱里たちを捨てたんじゃなくて、病気でそうせざるを得なかったんだ」

 背後から、尊さんが小さく洟を啜る音が聞こえる。

「……死にたい、死のうと思う気持ちは分かる。……俺もそうだった」

 暗闇の中、囁くような声が聞こえ、私はあの橋での出来事を思い出す。

「……私も、……そうだった」

 私は体を反転させ、尊さんを抱き締めた。

「……朱里は何も悪くない。悪いのはいつも、他者を追い詰めておいて素知らぬ顔をする奴らだ。いざ自分が糾弾されたら、被害者ぶって『自分は悪くない』と主張する。精神的に未発達な〝おとなこども〟が世の中には大勢いる」

 尊さんは震える声で言い、ギュッと私を抱き締めてきた。

「……若菜さんは夫の死後、会社に対して裁判を起こした。パワハラからの自死の被害者遺族として、朱里を一人で育てながら、働いて、弁護士と話し合い、澄哉さんの名誉を守るために戦い続けた」

 私にその辺りの記憶はない。

 多分私は、自分を「父親を亡くした世界一可哀想な人」と思い込み、母の大変さを知ろうとしなかったんだろう。

「会社側は過労死に値する長時間労働は認めたが、パワハラは認めなかった。少なくない和解金が提示され、……若菜さんも一人で戦い、朱里も気遣って……としている間に疲れてしまったんだろうな。……本当ならとことん戦って認めさせたかったが、途中で妥協した。……何年も何年も、同じ苦しみを抱きながら一人で子育てし、働きながら裁判費用で困窮するよりは、朱里のために前向きになったほうがいいと判断したんだと思う」

「……知らなかった……」

 呟くと、ポンポンと背中を叩かれた。

「悔しくても、生きていくほうが大事な時もある。誇りを叩き潰されても、尊厳を失っても、それでも諦めずに前を向いて進まないとならないんだ」

 芯の宿った力強い声を聞き、私の心の奥に勇気の火が宿った。

「生きる事はつらい。朱里も飛び降りようとした時、『どうして止めたんだ』と思っただろう。現実は絶望の連続で、何もいい事なんてない。死んだほうが楽になれると思っているのに、なおも現実という地獄に引き留める俺を恨んだと思う」

 私は血を吐くような想いで言葉を紡ぐ尊さんの腕を、ギュッと握った。

「……そんな事ない。……私は〝忍〟に救われたもの」

『それでも生きてくれよ』と言った彼は、自分のほうこそズタズタに傷付いた顔をしていた。

 何の痛みも知らない、ただのお節介な人に止められたなら、『あんたに何が分かるの!』と刃向かっていただろう。

 でも〝忍〟は自分も家族を亡くした事を打ち明け、生々しい傷と痛みを教え、『同じ』だと言った上で励ましてくれた。

 だから彼の言葉が、心にすんなり入ってきたんだと思う。

 どれだけ優しい人が親身になって同調してくれても、理不尽に家族を喪った人の苦しみは、同じ想いをした人にしか分からない。

「……この世は地獄だよ。……どれだけ善くあろうとして、できるだけ正直に誠実に生きようとしていても、俺が守っているルールをたやすく破り、他者に迷惑をかけても平気な顔をしている奴らが大勢いる。正直に誠実に生きても、誰かには憎まれる。人を傷つけないように気をつけていても、何気ない言葉で『傷つけられた!』とわめき散らす奴がいる。全部、思い通りにいかない事だらけだ。大切な人はある日突然死ぬし、どれだけ交通ルールを厳格に守っていても事故には遭う。善良に生きていても病気になる」

 嘆き苦しむ声は、まるで聖者のそれだった

「……でも、そんな地獄の中で咲く花にならないと。華やかでなくていい、大きく育たなくてもいい。ただ己の誇りを胸に掲げて、慎ましやかに咲けばいいんだ。……諦めてしまうとすべてが終わる。もしかしたら得るはずだったかもしれない幸せも、知らないままだ。……俺も諦めていたら、朱里と出会えなかったかもしれない」

 尊さんは手探りで私の頬を撫で、吐息を震わせて笑う。

「今日、色んな事を思いだして本当につらいと思う。全部投げ出して、泣いてわめいて、『嫌だ』と叫びたくなってるだろう。それら全部、俺に預けてくれ。俺の前でなら泣いてもいいし、地団駄踏んで叫びまくっていい。…………でも、それが終わったらまた、共に生きていこう」

 温かな声を聞き、私は涙を流す。

「生きるんだ。生きて、幸せになるんだ」

「~~~~っ、うぅ……っ、うー…………」

 その時こみ上げた涙の正体が何なのか、自分でもよく分からない。

 改めて父の死の真相を知り、絶望し、大きなショックと心の傷を思い出し、父に「どうして死んだの!」とやるせない怒りを抱き、それでも生きろと言ってくれた尊さんの、いまだ生々しい、血まみれの傷に触れ、――――すべてがグチャグチャに混じりあって私に涙を流させる。
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