部長と私の秘め事
「そういうものよ。私も今五十二歳になって、小さい時に両親がどうしてくれたとか、あまり覚えていないもの。断片的には覚えているけどね。……親子として一緒に過ごした事や、楽しい思い出を覚えていればそれで十分。……つらい事をずっと覚えているのは苦しいから、ある程度悲しんだあとは手放していいの」

 母が言ったあと、父が「腰にくるな」と笑ったあとに言った。

「人生って色んな事の連続で、当たり前だけど〝今〟に近い記憶ほど鮮明に覚えている。過去にあった嫌な出来事は、いつまでも心の中に棘のように刺さって消えないが、優しくて穏やかな日常こそ、平和だった証拠として薄れていくんだ。……でも漠然と『幸せだった』と思えたならそれでいい。……私も妻を愛していた記憶はしっかりあるし、四人家族だった時の幸せな思い出は大切に胸の奥にとってある。……でも、それをいつまでも振り返らずに、〝今〟の自分が作る事のできる幸せに目を向けていく事のほうが大事だ。……そうしたら、十年後、二十年後の自分が思いだして、新しい幸せに浸れるかもしれない。穏やかで幸せな記憶は薄れがちだからこそ、沢山沢山積み重ねて、分厚い層にしていくんだ」

 父の話を聞いて、彼もまた愛妻を病気で失った事を思い出す。

 チラッと美奈歩を見ると、真剣な表情で父親の言葉を聞いていた。

「……お母さん、お父さんが撮ってた写真って今でもある?」

「あるわよ。アルバムに収めて押し入れの奥にしまってあるけど。帰ったら一緒に見ましょうか」

「うん! お父さんがこの世界をどう見ていたのか、今ちゃんと確かめたい。……それで、昔に私がお父さんからもらったカメラ、まだあるならまた使ってみようかな」

「いいんじゃない? 大事にとってあるわよ」

 そんな会話をしながら私たちはお墓を綺麗にし、母から順番にお参りしていった。

 三田のマンションを出た時から、私はこうしたいと思っていたので、尊さんと共に数珠を持ってきていた。

 私はそれを手に絡め、両手を合わせて父に語りかける。

(お父さん、お墓参りするの、久しぶりになってしまってごめんなさい。……お父さんの事を『大嫌い』って言ってしまったけど、あれは本心からじゃなかった。……ただ、友達が羨ましくて癇癪を起こしてしまったの。……お父さんが死を選んだ理由は私の言葉じゃないって分かってる。……でも、ごめんね。最期に娘から聞いた言葉があれだったら、つらかったよね。最期ぐらい、『大好き』って聞きたかったよね。私も言いたかった。……ごめんね……っ)

 私は手を合わせながら涙を零す。

『お父さんなんて大嫌い』という言葉がが死の原因じゃなくても、最期に喧嘩せず『お父さん大好き! 長生きしてね』と言っていたら、父は少しか心変わりしたんじゃないだろうか、と思ってしまう。

(今、何を言っても手遅れなのは分かってる。ごめんね。……お父さんは沢山の愛情を注いでくれたのに、私は何も返せなかった。……十二年も経ってから謝る私を許して)

 目の前では線香の煙がくゆり、私の鼻腔にその香りが届く。

(今日ね、篠宮尊さんっていう、結婚する人も一緒なの。とっても優しい人だよ。……お父さんの死に絶望したから彼と出会ったって言ったらあんまりだけど、……お父さんが尊さんと引き合わせてくれたような気がする。……これから彼と幸せな家庭を築いていきます。結婚式、見ていてくれたら嬉しいな)

 その時、私の想いに応えるように風が吹き、髪を揺らした。

(新しいお父さんの貴志さんは、とってもいい人だよ。でも、嫉妬しなくていいからね。私もお母さんも、お父さんとの三人家族の思い出を大切にとってある。それで、私は今野澄哉と今野若菜の娘なの。それだけは変わらない事実だよ。……亮平と美奈歩とはちょっとギクシャクしたけど、今はうまくやれてると思ってる。……だから、お父さんから貴志さんにバトンを渡したと思って、安心して見守っていてね。私たち、ちゃんとゴールまでしっかり走りきるから)

 そこまで心の中で語りかけ、私は泣き濡れた顔で墓石を見て笑った。

「お父さん、大好きだよ」

 十二年前に言えなかった言葉を、いま伝える。

 遅すぎたかもしれないけど、ちゃんと届いていると信じて――。

 立ちあがった私は、笑顔で言った。

「また、お盆に来るね」

 そう言って根石から下りると、尊さんがハンカチを渡してくれた。

「……ありがとうございます」

 私はお礼を言い、みんなに背を向けて目元をそっと拭う。

 そのあと、父、美奈歩、尊さんの順に墓石に手を合わせた。

 高台にある霊園にはつかの間の晴れ間が訪れ、湿気はあるものの爽やかな風が吹いている。

 車で移動している間は雨が降っていたからか、曇天の間から光芒が差し、甲府の街並みを神々しい光で照らしていた。

 私たちはしばし黙り、その何とも言えない美しい光景に魅入っていた。

 暗い曇天の僅か一箇所が光り輝き、そこからスポットライトのように放射状の光が地上を照らしている。

『朱里、あれは天使の梯子とも言うんだよ』

 不意に、子供の頃に父に教えられた言葉を思い出した。
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