部長と私の秘め事
「もういいの。……もういい。……きっと私を撮影した〝証拠〟はどこかにある。それを使えばさらにあの女に罪を被せる事ができる。……でもまた苦しみたくないの。私はもう戦えない。立ちむかい、戦えば過去に傷付いた自分の仇をとれると分かっていても、やっと平穏な生活を楽しめるようになった今、あの地獄のような日々に向き合いたくない。理解できない悪魔のような心を持つ人たちの事を考えるだけで、苦しくて堪らなくなる。『どうしてそんな酷い事ができるの?』って聞いても、あの人たちは『自分は被害者だから、正義のために悪を罰している』としか言わないと思う。……それぐらい、考えも価値観も何もかも、噛み合わない人たちなんだよ。……人の人生を滅茶苦茶にして、尊厳も何もかも奪って、死にたくなるような想いをさせて、…………自分たちは高級マンションで悠々と暮らしていい物を食べて〝友達〟と笑い合っている。……私はもう、そんな現実に向き合いたくない」
血を吐くような彼女の言葉を聞き、私は涙を流していた。
宮本さんを初めて見た時は、「元気そうで良かった」と感じた。
明るそうな人だし、日差しを浴びて笑っているのがよく似合う女性だとも思った。
けどそうなれるようになるまで、彼女は信じられないぐらいの苦痛の中でのたうちまわり、何度も何度も絶望して、すべてを恨みたくなるような想いを抱き、それでも尊さんの事だけは信じ抜き、――――ようやくこの土地で光を得た。
確かに宮本さんが証言し、彼女が襲われた動画が残っているなら、さらに怜香さんと伊形社長を追い詰められるだろう。
でもそうする事で、彼女はセカンドレイプされる。
悪人には相応の罰を与えてほしいと望む気持ちはあれど、過去の深すぎる傷に向き合うエネルギーはないのだろう。
やっとかさぶたに覆われて、傷があった事を気にせず生きられるようになったのに、それをメリメリと剥がして痛みに耐えながら過去と向き合うなんて、……私にはできない。
先日は父の事と向き合って乗り越えたし、昭人に誘拐された事も日々の中に押し込んで忘れようとしている。
けれど心の痛みや死ぬかもしれないという恐怖を思い出すと、いまだに胸の奥にうつろな穴がポッカリと空いた心地になり、怖くて正気でいられなくなる。
「……悪かった。酷な事を言った」
尊さんが頭を下げると、宮本さんは深い溜め息をつき、「ううん」と首を横に振る。
「君が私のためにいまだ怒ってくれていて、そう提案してくれたのは嬉しい。気持ちだけ受け取っておくよ。……でも、私が今一番大切にしているのは、呉での生活なんだ。勿論、過去の自分をいたわってあげたい気持ちはある。『つらい目に遭ったね』って抱き締めて、沢山泣かせてあげたい。周りの人に『私はあの二人にこれだけ傷つけられたんです』って大きな声で訴えたい。……でも、もう家族や夫に沢山聞いてもらった。何回も何回も話して、カウンセラーの人にも聞いてもらって、やっと私は〝今〟を見つめて生きる事ができている」
彼女は微笑み、また一口パフェを食べる。
「あれから十年経って、私はもう三十二歳になった。……まだ若いと言われるかもしれないけど、きっとすぐ四十歳になり、子供の成長を見守りながら中年として過ごし、やがて老後の事を考えるようになる。……人生って、長いようで短い。その限りある時間を、憎しみと共に生きるなんて嫌なんだ。……私は家族を愛したい。夫と子供と愛犬と一緒に過ごして笑い合い、可能ならもう一人ぐらい子供に恵まれたい。……幸せになりたいんだ」
宮本さんは吐息をつきながら笑い、家族を思い出したのか優しい表情になる。
「十年前は『こんな汚れた私、誰にも愛されない』と思い込んでいた。……でも今は夫にも子供たちにも無条件で愛されている。そのささやかな幸せを守りたい。毎日仕事と子育てに追われて大変なのに、どれだけ考え、悩んでも変える事のできない過去について思い悩みたくないんだ。……あれはもう過ぎた事で、今の私には必要ない」
そこまで言い、彼女は目を閉じて静かに深呼吸する。
それからゆっくりと目を開き、私たちを見て笑った。
「今はやっと『あの出来事があったから地元に帰り、夫と巡り会って幸せを掴めた』と思えている。谷底で掴んだ土塊の中に、幸せの花の種があったんだ」
宮本さんは尊さんに笑いかける。
「君も、絶望の谷の底で幸せの種を掴んだでしょ? ……十年前、君は酔っぱらったら『あかり』って口にしていたけど、当時の君は妹がいるとは一言も言っていなかった。代わりに、『あかりって子を助けた』って言っていた」
宮本さんの口から自分の名前が出て、私はハッとする。
「君は自分の家族の事をあまり語らなかったけど、『実の母親は死んだ』とだけ言っていた。それしか言っていなかったから、私は先日ワイドショーで事件について知るまで、君にあかりさんという妹がいる事を知らなかったんだ。……でも君は酔っぱらったら『あかり、あかり』と繰り返して、『あいつは迂闊だから目が離せない』と心配していた。……君たちの馴れそめは知らないけど、それって朱里さんの事じゃないの?」
悪戯っぽく笑った宮本さんに見つめられ、尊さんはチラッと私を盗み見したあとに溜め息をつく。
それから、照れくさそうに十二年前に中学生の私と出会い、命を救ってからずっと気に掛けていた事を語った。
「凄いね、運命だ」
宮本さんはクシャッと笑い、心の底から私たちの仲を祝福してくれる。
「君はちゃんと掴んだ幸せの花を咲かせた。……今、幸せでしょ?」
「ああ」
彼女の問いに、尊さんはしっかり頷く。
血を吐くような彼女の言葉を聞き、私は涙を流していた。
宮本さんを初めて見た時は、「元気そうで良かった」と感じた。
明るそうな人だし、日差しを浴びて笑っているのがよく似合う女性だとも思った。
けどそうなれるようになるまで、彼女は信じられないぐらいの苦痛の中でのたうちまわり、何度も何度も絶望して、すべてを恨みたくなるような想いを抱き、それでも尊さんの事だけは信じ抜き、――――ようやくこの土地で光を得た。
確かに宮本さんが証言し、彼女が襲われた動画が残っているなら、さらに怜香さんと伊形社長を追い詰められるだろう。
でもそうする事で、彼女はセカンドレイプされる。
悪人には相応の罰を与えてほしいと望む気持ちはあれど、過去の深すぎる傷に向き合うエネルギーはないのだろう。
やっとかさぶたに覆われて、傷があった事を気にせず生きられるようになったのに、それをメリメリと剥がして痛みに耐えながら過去と向き合うなんて、……私にはできない。
先日は父の事と向き合って乗り越えたし、昭人に誘拐された事も日々の中に押し込んで忘れようとしている。
けれど心の痛みや死ぬかもしれないという恐怖を思い出すと、いまだに胸の奥にうつろな穴がポッカリと空いた心地になり、怖くて正気でいられなくなる。
「……悪かった。酷な事を言った」
尊さんが頭を下げると、宮本さんは深い溜め息をつき、「ううん」と首を横に振る。
「君が私のためにいまだ怒ってくれていて、そう提案してくれたのは嬉しい。気持ちだけ受け取っておくよ。……でも、私が今一番大切にしているのは、呉での生活なんだ。勿論、過去の自分をいたわってあげたい気持ちはある。『つらい目に遭ったね』って抱き締めて、沢山泣かせてあげたい。周りの人に『私はあの二人にこれだけ傷つけられたんです』って大きな声で訴えたい。……でも、もう家族や夫に沢山聞いてもらった。何回も何回も話して、カウンセラーの人にも聞いてもらって、やっと私は〝今〟を見つめて生きる事ができている」
彼女は微笑み、また一口パフェを食べる。
「あれから十年経って、私はもう三十二歳になった。……まだ若いと言われるかもしれないけど、きっとすぐ四十歳になり、子供の成長を見守りながら中年として過ごし、やがて老後の事を考えるようになる。……人生って、長いようで短い。その限りある時間を、憎しみと共に生きるなんて嫌なんだ。……私は家族を愛したい。夫と子供と愛犬と一緒に過ごして笑い合い、可能ならもう一人ぐらい子供に恵まれたい。……幸せになりたいんだ」
宮本さんは吐息をつきながら笑い、家族を思い出したのか優しい表情になる。
「十年前は『こんな汚れた私、誰にも愛されない』と思い込んでいた。……でも今は夫にも子供たちにも無条件で愛されている。そのささやかな幸せを守りたい。毎日仕事と子育てに追われて大変なのに、どれだけ考え、悩んでも変える事のできない過去について思い悩みたくないんだ。……あれはもう過ぎた事で、今の私には必要ない」
そこまで言い、彼女は目を閉じて静かに深呼吸する。
それからゆっくりと目を開き、私たちを見て笑った。
「今はやっと『あの出来事があったから地元に帰り、夫と巡り会って幸せを掴めた』と思えている。谷底で掴んだ土塊の中に、幸せの花の種があったんだ」
宮本さんは尊さんに笑いかける。
「君も、絶望の谷の底で幸せの種を掴んだでしょ? ……十年前、君は酔っぱらったら『あかり』って口にしていたけど、当時の君は妹がいるとは一言も言っていなかった。代わりに、『あかりって子を助けた』って言っていた」
宮本さんの口から自分の名前が出て、私はハッとする。
「君は自分の家族の事をあまり語らなかったけど、『実の母親は死んだ』とだけ言っていた。それしか言っていなかったから、私は先日ワイドショーで事件について知るまで、君にあかりさんという妹がいる事を知らなかったんだ。……でも君は酔っぱらったら『あかり、あかり』と繰り返して、『あいつは迂闊だから目が離せない』と心配していた。……君たちの馴れそめは知らないけど、それって朱里さんの事じゃないの?」
悪戯っぽく笑った宮本さんに見つめられ、尊さんはチラッと私を盗み見したあとに溜め息をつく。
それから、照れくさそうに十二年前に中学生の私と出会い、命を救ってからずっと気に掛けていた事を語った。
「凄いね、運命だ」
宮本さんはクシャッと笑い、心の底から私たちの仲を祝福してくれる。
「君はちゃんと掴んだ幸せの花を咲かせた。……今、幸せでしょ?」
「ああ」
彼女の問いに、尊さんはしっかり頷く。