部長と私の秘め事

「前にも言ったけど、モラハラの被害者は〝そう〟扱われてるって自覚できていないんだ。前に俺が『田村はモラハラだ』と言って、朱里は納得したけど、少し経ったらその〝気付き〟を忘れてしまう。長年植え付けられた感覚を、一回で払拭するなんて無理なんだ。モラハラとか精神的DVの被害は、長年にわたって精神という土に染み入っている。ちょっと綺麗な水を注いだからって、土に染みこんだ毒が全部抜ける訳じゃない」

「……うん」

「迷った時は、何回も口にしていい。そのたびに俺がトラウマを否定するから」

「…………うん……っ」

 私は涙を流し、ギューッと尊さんの腕を抱き締める。

「……弱くてごめんなさい……っ。尊さんだって、ずっとつらい思いをしたのに、私、自分だけが可哀想みたいな素振りをして……っ」

「いいんだ。俺と朱里が同じ痛みを抱えたとしても、どれぐらい耐えられるかには個人差がある。だから自分と俺を比べなくていい。どっちのほうが不幸かなんて、どうでもいいんだ。今、朱里が傷付いている事を優先していい」

 とうとう堪らなくなって、私は振り向いて彼を抱き締めた。

「…………っ、恐いんです……っ。尊さんや恵といると、心の底から〝本当の自分〟が出てきて、のびのびできて精神的にとても楽です。楽しい時を過ごしているのに、ふっと我に返るように、心の中で昭人の声がします。いつも冷笑してて、物事を斜めに見ていて、上辺だけは格好付けているのに、中身は自分の体面を守るのに必死な人。……今まで昭人に言われた数々の言葉が、心の底の柔らかい部分に刺さって、なかなか抜けないんです。それがたびたび蘇って、私を苦しめる……っ」

 尊さんは私の頭を撫で、チュッと頬にキスをする。

「もう昭人は私に会う事すらできないと分かっています。私はもう安全で、大好きな人と結婚して、幸せになっていくだけ。これから新しい家族を築いて、別の問題に直面していかなきゃならないのに、一年以上も前に別れた人の影響なんて受けなくていい。……分かっているはずなのに……」

 彼は労る目で私を見つめ、頬に流れた涙を舐める。

「悩む事を〝悪〟だと思わなくていい。朱里は九年近く田村と付き合い続け、奴のモラハラに侵され続けてきた。九年だぜ? 俺と付き合った時間よりずっと長い。九年もの洗脳を、一年も経っていない幸せで上書きしようなんて無理なんだ。今が満たされていたら、過去の事を思い出して悩むのは生産的じゃない、良くない事だと思いがちだ。でも、そう思わなくていい。つらいものはつらいんだ」

「うぅ……っ」

 私はグスッと洟を啜り、尊さんの肩に額をつける。

「朱里の傷なのに、朱里が認めてやんなきゃ誰が苦しむんだよ。俺はお前に寄り添っていたいけど、朱里の苦しみを直にシェアする事はできない。つらい目に合った事を認めて、両手で受け止めて、思いきり怒って嘆くんだ。大人のふりをして我慢しなくていい。痛みをなあなあにしていたら、未消化のまま将来に持ち越してしまう。だったら、痛みがまだある時に思いきり苦しんで、発散するんだ。長年モラハラされた挙げ句、ストーカーされて誘拐され、暴力を振るわれた事を、〝なかった事〟にするな。苦しんだ朱里が可哀想だ」

「うぅう……」

 目の奥が熱くなり、次から次に涙が出てくる。

「もう……、嫌なんです。昭人なんかに支配されるの……っ。彼氏らしくしてくれた事はあったかもしれないけど、心から私を大事にしてくれていなかった。私の事は、全部優秀なお兄さんを見返すための道具としてしか、求めてなかった……っ」

 ――あぁ、嫌だ。

 ――何回も同じ事を言ってしまっている。

「『彼氏らしくしてくれた』って、庇わなくていい。〝善く〟あろうとしなくていいんだ。朱里は沢山傷つけられたんだから、思ってる事を叩きつけろよ」

 言いたい事は沢山ある。

 でも尊さんの前で、汚泥のような自分をぶちまけるのは嫌だ。

 けど、それさえ言えなかったら、今後彼と夫婦になるのに本心を見せられないと思われそうで恐い。

「〝何となく〟で付き合わなきゃ良かった。『みんな彼氏がいるから、私も』なんてノリじゃなくて、っと自分を大切にすれば良かった……っ」

「自分を責めるなよ。違うだろ? 田村に言いたい事があるはずだ。あいつにはもう直接届かないけど、俺が聞いてやるよ」

 彼はそう言ってくれているけれど、「死ねばいいのに」なんて言葉、尊さんの前で言いたくない。

 簡単な罵倒の言葉であっても、人の死を願う事がどんなに重たい事か、私も尊さんもよく分かっている。

「……っ、尊さんの前で言えない……っ。~~~~っ、綺麗でいさせて……っ」

 泣き崩れると、彼は悲しそうな顔で私を見つめ、トントンと背中を叩いてきた。

「俺の前で言えなかったら、それでいいよ。俺も朱里の前では見せたくない姿はあるから、気持ちは分かる。……でも、帰国したあとでもいいから、中村さんとカラオケでも行って、ストレス発散して来いよ」

「はい……っ」

 私はギューッと尊さんを抱き締め、「ごめんなさい……っ」と謝る。

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