部長と私の秘め事
「母の人生は音楽と共にありました。家を出ざるを得なかったあと、しばらくはピアノに触れる事もできなかったと思いますが、結局は父が母に住む場所とグランドピアノを与え、彼女に音楽を取り戻した。……俺の父の事が憎いでしょうけど、そのお陰で俺と母、あかりは音楽と隣り合わせの生活を送れました。……悪い事の中にも、良い因子はあるんです」

「……そうね。篠宮さんがそういう環境を与えてくれなかったら、あなたはピアノを弾いていなかったと思うわ」

 彼女は静かに答える。

「母はとても楽しそうにピアノを弾き、教えてくれました。父はいいマンションを用意してくれましたが、防音室であっても時間を問わず弾くには限度があったので、サイレントグランドピアノを買い、思いきり弾ける環境を整えてくれました。それには感謝しているんです」

 通常、アップライトピアノでは後付けでも、真ん中のマフラーペダルを押しっぱなしの状態にする事で、消音ユニットを使って電子ピアノのようにヘッドフォンで音を聞きながら練習できる。

 グランドピアノでも不可能ではないが、若干音が狂ってしまう恐れがある。

 それを考慮し、父は母には良い物を使ってほしいとの事で、音にズレが生じないサイレントグランドピアノを買い与えた。

 あとから知れば三千万円近くする買い物だったが、好きな女のためには惜しくなかったようだ。

 俺からすれば『好きな女に好きな姿でいてほしい』というエゴでしかない。

 けれどそのお陰で、自分は音楽と共に生きられたと思うと何とも言えなくなるが。

「……俺も母が好きな曲をすぐにマスターしました。妹も一番好んでいた曲で、よく『お兄ちゃん弾いて』とせがまれました。……俺は楽譜を見て曲を弾き、妹がヘッドフォンで聴いているんです。……妹も簡単なメロディーを繰り返し弾き、喜んでいました。あの曲が俺たち親子を繋げてくれたと言っても過言ではありません」

 俺はオルゴールに目を落とし、微笑む。

「あなたにとって、母にまつわる思い出はすべてつらいものかもしれません。ピアノの曲も『大切な思い出』と言ってくれましたが、悲しみがなかったはずがありません。……俺も、一度は音楽を、……クラシックを憎みました。……父が求めるままに、あの家で自分の価値を示すために、『優秀な成績を収めないとならない』と思って詰め込むように練習を繰り返して〝コンクール荒らし〟と呼ばれ、弾けば弾くほど自分がすり減るように感じました」

 俺は当時の事を思いだして苦く笑ったあと、クシャリと破顔する。

「……けど、音楽を憎みきれなかった」

 百合さんはそれを聞き、頷いた。

「……私もだわ。自分が厳しすぎたせいで、大切な娘を喪ってしまったかもしれない。あの子に才能を見いだしたがゆえに執着し、過度な期待をしたばかりに、さゆりは『自分にはもっと他の生き方があるはずだ』と思って〝他〟を見ようとしたのかもしれない。……あの子が選んだ道がすべて間違いとは言わないわ。……そのお陰で今こうして尊と話せているのだもの。……でも、後悔して色んな〝たられば〟を考えてしまう。……私があの子にピアノを強制していなければ。……あの子に『二度とこの家の敷居をまたがないで』と言わなければ……」

 その声には、深い悔恨が宿っている。

 きつい事を言ってしまった自覚がある分、後悔は大きくなる。

 彼女はなおも続ける。

「さゆりにピアノを習わせなければ……と思ったけれど、何度想像しても、私は愚かにもあの子に音楽を教えてしまいそうだわ。……それぐらい、音楽に愛された子だった。……私たち一家は、音楽に囚われてしまっているのかもしれない。……それでも、音楽を憎めないの。……好きで、好きで堪らない。……それが私の人生だったの。……夢中になれる事がある人生を誇りに思っていたけれど、それで大切な人を喪ってしまったのだとしたら……っ。――――それでも……っ」

 百合さんの声が涙に崩れ、俺はテーブルの下でギュッと手を組む。

 しばらく、静かなロビーに彼女の嗚咽が響いた。

 俺はポケットの中に入れていたティッシュを出し、テーブルの上に滑らせる。

「……ありがとう」

 百合さんはそれを使い、少し経ったあと落ち着きを取り戻した。

 彼女の慟哭を聞いた俺は、ポツポツと思った事を述べていく。

「夢中になれる事があるって、素晴らしい事だと思います。……少なくとも俺は、篠宮家で〝要らない子〟として冷遇される中、ピアノに打ち込む事で現実のつらさを忘れられました。……あまりに大切なものができると、家族や友人、恋人とそれを天秤にかけなければならない時が来るかもしれません。……夢中になれる趣味でなくても、信頼できる人よりも金さえあればいいという人もいるでしょう。音楽だけでなく絵画や彫刻など、アートに人生を捧げる人もいる。……天からギフトを授かっても、進学や結婚、仕事、子育てに追われて、その才能を披露する機会を失っていく人もいます。ギフトを受け取り、全身全霊で愛していける人は、恵まれていると思います」

「……そうね」

 彼女はティッシュで眦を押さえ、静かに頷く。

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