部長と私の秘め事
「人は価値観を共有できる人を好みます。俺も深く音楽の話ができる人がいると、つい饒舌になります。そしてもしも、朱里や子供が音楽に興味を持ったら、望む範囲で教えたいと願うでしょう。……それ自身は悪い事ではないと思っています。たとえ音楽に夢中になったとしても、それが本業で人生を懸ける仕事、生きがいになったなら、家庭を顧みないとしても仕方ないと思います。世の中には一定数、スポーツマンにしろ、そのような人々がいるから、我々の世界が成り立っているのですから」
俺は組んだ手をテーブルの上に載せ、彼女に笑いかけた。
「……だから、あなたは悪くありません。……実際母は、俺やあかりに一言たりとも恨み言を口にしていませんでした。……あまり速水家の話をすれば返答に窮してしまうから、話題にする事は少なかったですが、『お母さんのお母さんは、とてもピアノが上手なのよ』と誇らしげに言っていました。……後悔する気持ちは分かります。でも『恨んでいたに違いない』とか、根拠のない想像で、母を否定する必要はないです」
「……ありがとう。気持ちが軽くなったわ」
百合さんはオルゴールの輪郭を指でなぞり、尋ねてきた。
「さゆりはどんな母親だった?」
「そうですね……」
俺は少し前のめりになり、昔を思い出す。
「いつも楽しそうな人でした。……小牧ちゃんや弥生ちゃん、明るくて楽しいでしょう。ちえりさんは落ち着いた年齢になりましたが、若かった頃は同じような気質をしていたように思えます。……母も、とても明るかったです。思い出すのは笑顔ばかりで、料理はあまり得意ではなかったんですが、動画を見て色んな料理にチャレンジして、失敗して『ごめんね』と笑い、みんなで『まずーい!』と言って、笑って食べました。でも次に作る時は必ず成功させていました。作法とかもちゃんと教えてくれて、ハンバーグを食べる時にフレンチレストラン風にカトラリーを並べ、練習した事もありました。……精神面でも、『悪い事をしたら絶対自分に返ってくる』って強く言われましたね。……そして『何をされても相手を憎まず、許してあげる気持ちを持って』とも言われました」
心の奥にしまっていた母の思い出が、色づいて蘇ってくる。
「母は自分たち親子が、……篠宮怜香に望まれない存在だと自覚していました。……だから余計に、仮に誰かから責められる事があっても、ふて腐れず誇りを胸に掲げて〝善い人〟であってほしいと望んでいたのだと思います。……母と妹を喪って、あの家で暮らし始めた俺は、一度人らしい心を失いました。……それでも、母の教えや言葉が、まるで信仰のように心の底に光を当て、〝今〟幸せに生きているここまで導いてくれたんだと思っています。……母は、凄い人です」
百合さんはグスッと洟を啜り、ロビーの遠くを見る。
そのまま何か考えたあと、噛み締めるように、ゆっくり何度も頷いた。
「……娘を誇りに思うわ」
「そう言ってもらえて、母もきっと喜んでいると思います」
彼女は静かに微笑み、もう一度オルゴールを開いて『きらきら星変奏曲』を聴いた。
曲が二周した頃、百合さんは静かに蓋を閉める。
「尊の話を聞いてからこの曲を聴くと、違う印象になったわ。今までの私にとっては悔恨の曲だったけれど、今はさゆりが一生懸命生きた証に思える」
「そうですね。俺にとっても色んな想いが詰まった曲ですが、最終的には未来へ繋ぐ曲と思えています」
俺も、この曲が呪いの曲に思えた時があった。
〝思い出〟は光と闇の両方の性質を持つ。
闇の思い出に囚われれば、常に後悔と悲しみ、憎しみに囚われる。
堕ちて獣のようになったほうが楽だと分かっていても、母の教えが俺にブレーキをかけさせ、強引に光の道へ引き戻してくれた。
「……人は簡単に闇に堕ちます。……篠宮怜香がいい例です。聖人などいませんから、どんな人も、激しい怒りや憎しみに包まれる事はあります。……でもそれに理性のブレーキを掛けられるかどうかは、生育環境などが関わっているんでしょうね。親が〝そう〟なら、子供も〝そう〟であっていいと解釈してしまう。認知が歪んだまま育てば、表向き社交的でまともな大人に見えても、いざという時に信じられない行動をとる人に育ちます。……母が苦境の中でも明るさを失わなかったのは、あなたの教えが生きているからだと思いますよ」
百合さんは苦く笑う。
「私はそんなにたいそうな事を教えられなかったわ。教えられたのは音楽に関する事だけ。……あとはプライドだけは高かったから、『常に誇り高い人間であれ。みっともない事をするな』とは言っていたかも」
「芯に宿る精神がまっすぐなら、いいんだと思いますよ」
「ありがとう」
彼女は微笑み、ツ……、とオルゴールを指先でなぞる。
俺は百合さんの爪が短く整えられた指を見て、「ピアニストの指だ」と感じながら続けた。
「……なるべく、好きなものが多い人生になりたいですね。母はあなたにピアノという生きがいを教えてもらい、とても幸せだったと思います。俺もいつか子供ができたら、音楽だけでなく、色んな事を教えて、世界は素晴らしい所だと伝えてあげたいです。世の中には沢山のものがあると教えて、選択肢を広げるのが親の役割で、その中から取捨選択していくのが子供の人生と思っています。……試行錯誤して子育てしていきたいと思うので、見守っていただけたらと思います」
「そうね。尊と朱里さんの子供……、孫が生まれるのを楽しみにしているわ。……そのためにも、健康でいなくてはね」
「はい」
微笑んだあと、思い切って提案した。
俺は組んだ手をテーブルの上に載せ、彼女に笑いかけた。
「……だから、あなたは悪くありません。……実際母は、俺やあかりに一言たりとも恨み言を口にしていませんでした。……あまり速水家の話をすれば返答に窮してしまうから、話題にする事は少なかったですが、『お母さんのお母さんは、とてもピアノが上手なのよ』と誇らしげに言っていました。……後悔する気持ちは分かります。でも『恨んでいたに違いない』とか、根拠のない想像で、母を否定する必要はないです」
「……ありがとう。気持ちが軽くなったわ」
百合さんはオルゴールの輪郭を指でなぞり、尋ねてきた。
「さゆりはどんな母親だった?」
「そうですね……」
俺は少し前のめりになり、昔を思い出す。
「いつも楽しそうな人でした。……小牧ちゃんや弥生ちゃん、明るくて楽しいでしょう。ちえりさんは落ち着いた年齢になりましたが、若かった頃は同じような気質をしていたように思えます。……母も、とても明るかったです。思い出すのは笑顔ばかりで、料理はあまり得意ではなかったんですが、動画を見て色んな料理にチャレンジして、失敗して『ごめんね』と笑い、みんなで『まずーい!』と言って、笑って食べました。でも次に作る時は必ず成功させていました。作法とかもちゃんと教えてくれて、ハンバーグを食べる時にフレンチレストラン風にカトラリーを並べ、練習した事もありました。……精神面でも、『悪い事をしたら絶対自分に返ってくる』って強く言われましたね。……そして『何をされても相手を憎まず、許してあげる気持ちを持って』とも言われました」
心の奥にしまっていた母の思い出が、色づいて蘇ってくる。
「母は自分たち親子が、……篠宮怜香に望まれない存在だと自覚していました。……だから余計に、仮に誰かから責められる事があっても、ふて腐れず誇りを胸に掲げて〝善い人〟であってほしいと望んでいたのだと思います。……母と妹を喪って、あの家で暮らし始めた俺は、一度人らしい心を失いました。……それでも、母の教えや言葉が、まるで信仰のように心の底に光を当て、〝今〟幸せに生きているここまで導いてくれたんだと思っています。……母は、凄い人です」
百合さんはグスッと洟を啜り、ロビーの遠くを見る。
そのまま何か考えたあと、噛み締めるように、ゆっくり何度も頷いた。
「……娘を誇りに思うわ」
「そう言ってもらえて、母もきっと喜んでいると思います」
彼女は静かに微笑み、もう一度オルゴールを開いて『きらきら星変奏曲』を聴いた。
曲が二周した頃、百合さんは静かに蓋を閉める。
「尊の話を聞いてからこの曲を聴くと、違う印象になったわ。今までの私にとっては悔恨の曲だったけれど、今はさゆりが一生懸命生きた証に思える」
「そうですね。俺にとっても色んな想いが詰まった曲ですが、最終的には未来へ繋ぐ曲と思えています」
俺も、この曲が呪いの曲に思えた時があった。
〝思い出〟は光と闇の両方の性質を持つ。
闇の思い出に囚われれば、常に後悔と悲しみ、憎しみに囚われる。
堕ちて獣のようになったほうが楽だと分かっていても、母の教えが俺にブレーキをかけさせ、強引に光の道へ引き戻してくれた。
「……人は簡単に闇に堕ちます。……篠宮怜香がいい例です。聖人などいませんから、どんな人も、激しい怒りや憎しみに包まれる事はあります。……でもそれに理性のブレーキを掛けられるかどうかは、生育環境などが関わっているんでしょうね。親が〝そう〟なら、子供も〝そう〟であっていいと解釈してしまう。認知が歪んだまま育てば、表向き社交的でまともな大人に見えても、いざという時に信じられない行動をとる人に育ちます。……母が苦境の中でも明るさを失わなかったのは、あなたの教えが生きているからだと思いますよ」
百合さんは苦く笑う。
「私はそんなにたいそうな事を教えられなかったわ。教えられたのは音楽に関する事だけ。……あとはプライドだけは高かったから、『常に誇り高い人間であれ。みっともない事をするな』とは言っていたかも」
「芯に宿る精神がまっすぐなら、いいんだと思いますよ」
「ありがとう」
彼女は微笑み、ツ……、とオルゴールを指先でなぞる。
俺は百合さんの爪が短く整えられた指を見て、「ピアニストの指だ」と感じながら続けた。
「……なるべく、好きなものが多い人生になりたいですね。母はあなたにピアノという生きがいを教えてもらい、とても幸せだったと思います。俺もいつか子供ができたら、音楽だけでなく、色んな事を教えて、世界は素晴らしい所だと伝えてあげたいです。世の中には沢山のものがあると教えて、選択肢を広げるのが親の役割で、その中から取捨選択していくのが子供の人生と思っています。……試行錯誤して子育てしていきたいと思うので、見守っていただけたらと思います」
「そうね。尊と朱里さんの子供……、孫が生まれるのを楽しみにしているわ。……そのためにも、健康でいなくてはね」
「はい」
微笑んだあと、思い切って提案した。