部長と私の秘め事
 声を掛ける者がいないのは、誰もみない会議室にいるからだ。

「…………あか、……り……?」

 その名前を口にすると、涙が勝手にこみ上げてくる。

 ――――脳裏に浮かんだのは四歳の妹だ。

《おにいちゃん!》

 幼い声が耳の奥に蘇る。

『あぁ…………』

 俺は激しい後悔と苦悩を思いだして声を漏らし、細めた目から、ツゥッ……と涙を流す。

 ――思いだした。

 ――どうして忘れていたんだろう。

 俺の家族は母だけでなく、小さな〝あかり〟もいた。

 妹はとても可愛く、俺と母が弾くピアノを聴いてニコニコ笑う天使のような子だった。

 彼女は将来はピアニストになると言って、俺と母の真似をしてよくピアノを弾いていた。

 大好きだったのは『きらきら星』で――――。

《ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソー……》

 ある日の夕方の光景が蘇る。

 台所からは母が料理をしている匂いが漂い、ピアノの椅子にあかりが座って、脚をブラブラさせながら、小さな手で鍵盤を追っていた。

 俺は一オクターブ高い鍵盤で同じメロディーを弾きながら、学校の友達と些細な事で口論してしまった事を後悔していた。

 そんな、どこにでもありそうな日常の光景が脳裏に蘇り、俺を焼く。

『…………あかり…………っ』

 俺はもう二度と取り戻せない、平凡で幸せな日々を思いだし、ボロボロと涙を零した。

『は……っ、は……っ』

 混乱した俺は、荒くなる呼吸を必死に落ち着かせようとする。

 ――――脳裏に〝あの瞬間〟が蘇る。

 耳障りな音を立ててタイヤがアスファルトを擦り、人々が悲鳴を上げる。――――そして、母と小さなあかりは――。

 鈍い音がして、母はあかりもろとも思いきり飛ばされた。

 物凄い勢いでアスファルトに叩きつけられ、――聞きたくない、鈍い音がした。

 その上をさらに車が走って、二人を引きずり――――。

『ぁ…………、あぁ…………。――――〝あかり〟…………っ』

 体が震え、止まってくれない。

 ――恐い。

 ――誰か助けてくれ。

 そう思うのに、今の俺には縋り付く相手が誰一人としていない。

 ――助けてくれ! 〝朱里〟!

 その時、俺の脳裏に浮かんだのは〝朱里〟だった。

 運命の夜に遭遇した、俺と同じ痛みを抱える少女。

 あの子が側にいたら、きっと心の支えになってくれるのに――。

 今度こそ守らせてくれるのに――。

『う……っ、――うぅ、…………ぅ……っ』

 俺は会議室の壁にもたれ掛かり、うずくまって嗚咽した。

 二十八歳の部長にもなって、大の大人が会社で泣くなんて――。

 いつも俺を冷笑するもう一人の自分の声は、今日ばかりは元気がなさそうだった。





 落ち着いたあと、俺はもう一度〝朱里〟の履歴書を見た。

『……あいつ、誕生日が十二月一日なのか。……まるで……』

 ――あかりの魂が入って、俺に会いに来たみたいじゃないか。

 そんな世迷い言を呑み込んだあと、しばらく履歴書に貼ってある写真を見つめた。

 似てないし、別人だ。

『……偶然が重なっただけだ』

 言い聞かせるが、心の中で様々な妄想が広がっていく。

(もしあかりが生きていたら、朱里と同い年だ。今頃こうやって就活に励んでいたかもしれない)

 俺はほろ苦い感情と共に涙を流して微笑み、指で朱里の写真を撫でる。

『……なぁ、朱里。お前の命を救えて本当に良かったよ。お前は俺の光だ。希望だ。……あのとき俺はお前に〝自分の道を歩め〟と言ったくせに、本当はお前に依存しそうな自分を怖れていたんだ。…………でも結局、俺は今…………』

 絶望と悲しみにまみれた俺は、朱里の人生をねじ曲げ、自分のもとへ引き寄せてしまった。

『見守るだけだから。…………お願いだ』

 呟いた俺は、うつろな目で写真の中の朱里に微笑みかけた。



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