部長と私の秘め事
朱里から苦手な上司と思われていたのは分かっていたが、その頃からさらに避けられているように感じた。
それが顕著になった頃に中村さんに聞けば、とうとう田村にフラれたとの事だ。
内心喜んだのはさて置き、少しでも力になりたいと思った俺は、とりあえず上司として話を聞こうとした。
『どうした? 上村。最近様子がおかしいと、部署のやつが言っていたけど』
ミスが多くなっている事は部下から聞いていたから、これは嘘ではない。
社食で話しかけると、朱里は大きな目でジロリと俺を睨む。
朱里にとって俺は〝苦手な上司〟なんだろう。
だがその時の彼女は、愚痴を聞いてもらえるなら誰でも良かったみたいだ。
『聞いてくださいよ。彼氏に〝もう女として見られない〟って言われたんです。……そりゃあ、ちょっとご無沙汰ですけど、彼氏としては大切にしていたつもりなのに……』
朱里はフラれたとは言わずに愚痴を言う。
――でも悪いな、全部知ってるんだ。
お前の彼氏は合コンで相良加代に会って、別れる決意をしたみたいだぞ。
田村は自分に弱さを見せない朱里より、〝女〟として分かりやすい弱さがあり、『守ってやりたい』と思わせる相良加代を選んだんだ。
すべて分かっていて、俺は心の中で囁く。
――そんな男、忘れちまえよ。
――お前を大切にできない、お前の傷に寄り添えない男なんてやめちまえ。
――女として見られない? こんなに魅力的なのに?
――それなのに他の女を選ぶっていうなら、…………俺がもらってもいいよな?
中村さんから『田村って、朱里の扱いが適当なんですよね』と聞いていた俺は、長い間苛立ちを感じ続けていた。
俺の大切な朱里に魅力がない? ふざけんなよ?
何よりも大切にして、遠くから見守り続けた俺の〝特別〟を、お前はそうやってぞんざいに扱うんだな? 田村。
朱里がお前を好きなら……と手を出さずにいたが、そう出るならこちらにも考えがある。
だから、わざと朱里が望まない答えを口にした。
『そりゃ、お前にも原因があるんじゃないか? 二十代の男っていったら、やりたい盛りだろ』
言った瞬間、朱里はムッとして俺を睨んだ。
分かってるよ。『お前は悪くない』って慰めてほしかったんだろ? でも駄目だ。
もともと俺の事を快く思っていないなら、もっと嫌いになってもいい。とにかく田村への期待は捨てろ。
『部長もシングルらしいですけど、お相手ができたらいいですね』
朱里に憎まれ口を叩かれた俺は、『そうだな』と笑って社食をあとにした。
その一年後の十一月三十日――、母と妹の命日は木曜日だ。
平日なのでピアノを弾くのは週末にし、俺はリビングのコンポでモーツァルトの『ラクリモーサ』を掛けて朝食をとる。
いつものように出社し、その日ばかりは早めに退勤して墓地へ向かった。
俺は四年前に墓地で中山の家族と遭遇したあと、気持ちを整えてから再度彼女たちと会って話を聞き、怜香を陥れるための証拠を揃えた。
復讐の手はずを整える一方で、俺の朱里への気持ちに変化ができていった。
最初は彼女が幸せになるなら、隣にいる男は田村でも誰でもいいと思っていた。
俺も恋人を作り、お互い別の人を大切にして、それぞれの人生を歩むのが精神的に健康な生き方だと思ったからだ。
だが俺の人生は怜香によって破壊され、精神も崩壊寸前になっていた。
藁にも縋る思いで希望――朱里を求めた俺は、彼女を篠宮ホールディングスに引き入れるまでしてしまった。
そのあとにも誤算はあった。
側で見守るだけと決めていたのに、朱里は田村から大切にされていなかったのを知る。
その結果『俺ならもっと朱里を大事にするのに』……という想いが膨れ上がり、『遠くから見守ろう』という気持ちが崩れていく。
さらに朱里が田村に抱かれたと聞いて、頭の中で何かがパンクした。
朱里を妹のように思っていたはずだったのに、俺はいつの間にか彼女を恋愛対象に見てしまっていた。
――俺なら朱里を大切にできる。
――俺が一番彼女を理解できる。
――周りの誰も頼りにならないなら、俺のものにしてもいいだろう?
そして自分と朱里が幸せになるには……、と考え、障害を取り払う事を考え始めた。
――怜香を排除すれば、朱里を愛しても誰にも文句を言われないんじゃないか?
父と風磨は俺に遠慮しているから、何か望めば受け入れてくれるはずだ。
それを逆手にとって我が儘を言った事はないが、いつか大切な頼み事ができた時のために、大人しく過ごしてきた。
あいつらだって、怜香さえ黙らせれば協力してくれるだろう。
一度朱里に甘い期待を抱いてしまうと、彼女の事ばかり考えるようになった。
実際、朱里には『嫌な上司』と思われたままで、恋愛対象として見てもらえていない。
なのに俺は、彼女と結ばれる未来を夢想して動き始めた。
俺は妄想に取り憑かれたやべぇ奴だ。
朱里が田村と別れたのは一年前だが、その間、俺は怜香を陥れる準備に奔走していて、彼女に迫るどころではなかった。
フリーになった朱里に彼氏ができないか心配だったが、そうならなかったのは、朱里が田村に強い未練を抱いていたからだ。
中村さんからの報告では、朱里はまだ次の恋愛に目を向ける心境ではないらしい。
俺は彼女の心の傷が癒えるのを待つ間、自分の成すべき事をしていった。
そして一年が経ち、田村への未練が少し薄れた〝今〟なら、行動を起こしてもいいのでは……と感じ始めた。
それが顕著になった頃に中村さんに聞けば、とうとう田村にフラれたとの事だ。
内心喜んだのはさて置き、少しでも力になりたいと思った俺は、とりあえず上司として話を聞こうとした。
『どうした? 上村。最近様子がおかしいと、部署のやつが言っていたけど』
ミスが多くなっている事は部下から聞いていたから、これは嘘ではない。
社食で話しかけると、朱里は大きな目でジロリと俺を睨む。
朱里にとって俺は〝苦手な上司〟なんだろう。
だがその時の彼女は、愚痴を聞いてもらえるなら誰でも良かったみたいだ。
『聞いてくださいよ。彼氏に〝もう女として見られない〟って言われたんです。……そりゃあ、ちょっとご無沙汰ですけど、彼氏としては大切にしていたつもりなのに……』
朱里はフラれたとは言わずに愚痴を言う。
――でも悪いな、全部知ってるんだ。
お前の彼氏は合コンで相良加代に会って、別れる決意をしたみたいだぞ。
田村は自分に弱さを見せない朱里より、〝女〟として分かりやすい弱さがあり、『守ってやりたい』と思わせる相良加代を選んだんだ。
すべて分かっていて、俺は心の中で囁く。
――そんな男、忘れちまえよ。
――お前を大切にできない、お前の傷に寄り添えない男なんてやめちまえ。
――女として見られない? こんなに魅力的なのに?
――それなのに他の女を選ぶっていうなら、…………俺がもらってもいいよな?
中村さんから『田村って、朱里の扱いが適当なんですよね』と聞いていた俺は、長い間苛立ちを感じ続けていた。
俺の大切な朱里に魅力がない? ふざけんなよ?
何よりも大切にして、遠くから見守り続けた俺の〝特別〟を、お前はそうやってぞんざいに扱うんだな? 田村。
朱里がお前を好きなら……と手を出さずにいたが、そう出るならこちらにも考えがある。
だから、わざと朱里が望まない答えを口にした。
『そりゃ、お前にも原因があるんじゃないか? 二十代の男っていったら、やりたい盛りだろ』
言った瞬間、朱里はムッとして俺を睨んだ。
分かってるよ。『お前は悪くない』って慰めてほしかったんだろ? でも駄目だ。
もともと俺の事を快く思っていないなら、もっと嫌いになってもいい。とにかく田村への期待は捨てろ。
『部長もシングルらしいですけど、お相手ができたらいいですね』
朱里に憎まれ口を叩かれた俺は、『そうだな』と笑って社食をあとにした。
その一年後の十一月三十日――、母と妹の命日は木曜日だ。
平日なのでピアノを弾くのは週末にし、俺はリビングのコンポでモーツァルトの『ラクリモーサ』を掛けて朝食をとる。
いつものように出社し、その日ばかりは早めに退勤して墓地へ向かった。
俺は四年前に墓地で中山の家族と遭遇したあと、気持ちを整えてから再度彼女たちと会って話を聞き、怜香を陥れるための証拠を揃えた。
復讐の手はずを整える一方で、俺の朱里への気持ちに変化ができていった。
最初は彼女が幸せになるなら、隣にいる男は田村でも誰でもいいと思っていた。
俺も恋人を作り、お互い別の人を大切にして、それぞれの人生を歩むのが精神的に健康な生き方だと思ったからだ。
だが俺の人生は怜香によって破壊され、精神も崩壊寸前になっていた。
藁にも縋る思いで希望――朱里を求めた俺は、彼女を篠宮ホールディングスに引き入れるまでしてしまった。
そのあとにも誤算はあった。
側で見守るだけと決めていたのに、朱里は田村から大切にされていなかったのを知る。
その結果『俺ならもっと朱里を大事にするのに』……という想いが膨れ上がり、『遠くから見守ろう』という気持ちが崩れていく。
さらに朱里が田村に抱かれたと聞いて、頭の中で何かがパンクした。
朱里を妹のように思っていたはずだったのに、俺はいつの間にか彼女を恋愛対象に見てしまっていた。
――俺なら朱里を大切にできる。
――俺が一番彼女を理解できる。
――周りの誰も頼りにならないなら、俺のものにしてもいいだろう?
そして自分と朱里が幸せになるには……、と考え、障害を取り払う事を考え始めた。
――怜香を排除すれば、朱里を愛しても誰にも文句を言われないんじゃないか?
父と風磨は俺に遠慮しているから、何か望めば受け入れてくれるはずだ。
それを逆手にとって我が儘を言った事はないが、いつか大切な頼み事ができた時のために、大人しく過ごしてきた。
あいつらだって、怜香さえ黙らせれば協力してくれるだろう。
一度朱里に甘い期待を抱いてしまうと、彼女の事ばかり考えるようになった。
実際、朱里には『嫌な上司』と思われたままで、恋愛対象として見てもらえていない。
なのに俺は、彼女と結ばれる未来を夢想して動き始めた。
俺は妄想に取り憑かれたやべぇ奴だ。
朱里が田村と別れたのは一年前だが、その間、俺は怜香を陥れる準備に奔走していて、彼女に迫るどころではなかった。
フリーになった朱里に彼氏ができないか心配だったが、そうならなかったのは、朱里が田村に強い未練を抱いていたからだ。
中村さんからの報告では、朱里はまだ次の恋愛に目を向ける心境ではないらしい。
俺は彼女の心の傷が癒えるのを待つ間、自分の成すべき事をしていった。
そして一年が経ち、田村への未練が少し薄れた〝今〟なら、行動を起こしてもいいのでは……と感じ始めた。