想いと共に花と散る
 夜は深く、屯所は完全な静寂に沈んでいた。
 風が止み、虫の声すら遠のく。まるで、世界そのものが息を潜めているかのようだった。
 屋敷の奥の一室。芹沢鴨は、酒の残る身体を畳に預けて眠っていた。
 規則正しくはない呼吸。
 夢を見ているのか、時折、眉が僅かに動く。
 その時――……音がした。
 畳を踏む、微かな気配。それは、耳を澄まさなければ気づかないほどの微細なものだった。
 芹沢は、ゆっくりと目を開ける。

「……来たか」

 低く、掠れた声は夜の闇に包まれる部屋に溶けて消える。その声音に驚きはなかった。恐怖もない。
 障子の向こうに、影が幾つか立つ。その中心にある影が、一歩前に出た。

「……ああ」

 短い返答が障子の向こうから聞こえた。それ以上の言葉は交わされない。
 しばしの沈黙の後、芹沢はゆっくりと身体を起こす。
 布団の上に座り、障子の向こうを見据えるその目はいつもの荒々しさを失っていた。
 ゆっくりと傍らに置いていた刀に手を伸ばし、芹沢は口を開く。

「……俺が邪魔か」

 問いかけは、誰か一人に向けたものではない。
 この場にいる全員へ、そして――……動乱の時代そのものへ。
 自分自身にすら言い聞かせるそんな問いに、返事はない。
 障子を隔てて流れる沈黙が、肯定の代わりに落ちる。

「はは……そうだろうな」

 手を伸ばした先にある刀には触れず、芹沢は小さく笑った。
 それは、酒に酔った笑いでも嘲りでもない。
 ただ、訪れる結末に身を委ねる。動乱の世に抗いたくも最後には恨み辛みだけを残した、自分自身を恨むだけ。

「随分と、真面目な連中を育てちまった」

 その一言と共に、障子の向こうの影が動く。
 床を踏む音。衣擦れの音。そして、空気が変わる。
 それらだけを聞くために、芹沢はゆっくりと静かに目を閉じた。

「……好きにしろ」

 それが、最後の言葉だった。誰に届いたのかは、この男は知らぬまま。
 次の瞬間、部屋の中の闇が揺れた。何かが倒れる音。息が詰まる、短い音。
 残るのはそれらだけ。
 悲鳴はない。争いの音も、怒号もない。全ては、あまりにも静かに終わった。
 影達は、一人、また一人と部屋を出ていく。来た時と同じように、音を残さず。
 最後に残った影が、一度だけ振り返った。
 畳の上に横たわる芹沢は、もう動かない。その顔は、不思議なほど穏やかだった。
 障子が、静かに閉まる。夜は再び、何事もなかったかのように静まり返った。
 だが、その夜を境に新撰組は完全に「剣の組織」になった。
 守るために斬る。
 秩序のために、命を切り捨てる。
 その覚悟が、血よりも重く、屯所に沈んでいった。
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