想いと共に花と散る
 洋館へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
 つねと別れ、自室へ荷を置くと雪は迷うことなく台所へ向かう。
 買ってきた懐中時計の包みは、そっと袖の内に忍ばせたまま。

(……まずは、いつも通り)

 台所へ入り、湯を沸かす。京から持ち込んだ茶葉を量る。
 この一連の動きは、もう身体に染み付いている。
 余計なことを考えなくて済むから、今はそれが有り難かった。
 慣れた手つきで、盆に湯気が立ち上る湯呑みを載せる。
 西洋のカップではなく、今日は迷わず昔ながらの湯呑みを選んだ。

「琴さんに、負けないようにっ……」

 盆を手に台所を出て、薄暗い廊下を進む。
 階段を登り、曲がり角を超えると彼の部屋はすぐそこだ。
 重厚な雰囲気が漂う扉の前に立ち、ゆっくりと息を吸って呼吸を整える。

「失礼します」

 静かに声を掛けると、中からは低く短い「入れ」という声が返ってくる。
 部屋に入ると、土方は文机に向かったまま、黙々と書状に筆を走らせていた。
 雪は、革製のソファの間にある浮く絵の上に盆を置く。湯呑みを手に取り、文机に並ぶ書類が濡れないように少し離れた位置に置いた。

「お茶です」
「ああ」

 いつも通りの、ぶっきらぼうな短い返事だ。だが、拒絶ではない。
 湯呑みを取る手が、ほんの一瞬だけ止まる。
 雪がいつもの湯呑みを選んだことに気付いたのかもしれない。
 しかし、土方は何も言わずに湯呑みを取って一口啜った。

「……悪くねぇ」

 ゆっくりと湯呑みを置いてから発されたその一言で、雪の胸が少しだけ軽くなる。
 それからしばらく、静かな時間が流れた。
 筆の走る音。紙を捲る音。湯呑みを置く小さな音。雪はいつものように、少し離れた位置で控えてそれらの音に耳を傾けていた。
 そうしていると、ここが自分の居場所出ると思えるから。
 けれど今日は、袖の内にある小さな包みがじわじわと存在を主張してくる。

(今……? いや、でも……)

 声を掛ける理由を探している自分が、少し可笑しく思える。
 それでも、意を決して雪は一歩前へ出た。
 何が書かれているのか分からない大量の書類が散らばる文机の前に立つ。すると、土方が筆を走らせる書類に影が落ちた。
 その気配に、土方の筆が止まる。

「どうした」

 顔を上げた土方は、これまたいつも通り短い問いしか口にしない。
 そして彼は、わざわざ書類を机の上へ置いた。
 雪へ向き直り、女でも男でも惚れてしまう端正な顔を向ける。
 目が合い、逃げ場のない距離が雪の背後に迫った。

「……何かあるなら、言え」

 仕事中に出す声ではない、いつも雪にだけに向ける声だった。
 雪は一度だけ視線を落とし、それから、袖の中へ手を入れた。
< 463 / 489 >

この作品をシェア

pagetop