想いと共に花と散る







 薄暗い廊下の奥で、琴は立ち止まった。
 背後では、まだ雪がそこに立っている気配がする。
 振り返らない。振り返る必要もない。

「……失くさない、ですって?」

 誰にも聞こえぬ声が、低く零れ落ちる。
 ゆっくりと、真っ赤な紅が塗られた口元が吊り上がった。
 失くさない。絶対に。そう言った、あの迷いのない目。
 あの、守られてきた者の目。

(あれが、気に入らないのよ)

 胸の奥で、黒い感情が静かに膨らむ。
 何も知らずに。
 何も失わずに。
 守られた記憶を誇るように身に着けて、見せつけてくる様が気に入らない。

「いいご身分だこと」 

 ――あの首巻き。
 ――あのバンダナ。
 雪の喉元に巻かれた白。左手首に結ばれた色褪せた布。
 それらはただの布切れのはずなのに、琴の目には奇妙な光を帯びて映っていた。
 まるで戦を潜り抜けた証のように。誰かに守られ、誰かを守ろうとした証のように。
 勲章。そんな言葉が、ふと胸に浮かぶ。
 琴はゆっくりと、自身の指先を見下ろした。
 白く細い指。何も握っていない。何も残っていない。

「物は、壊れる」

 小さく、確かめるように呟く。
 声は低く柔らかい。けれど、その奥には冷たい芯があった。

「人も、壊れる」

 廊下の奥から、風が抜ける。ガラス張りの窓が風に揺れ、軋む音が微かに鳴った。

「……物の方が、簡単ね」

 くすり、と小さな笑いが溢れると共に唇が歪んだ。
 雪は知らない。
 この洋館の構造も。
 鍵の掛からぬ客間が幾つあるのかも。
 夜半の見回りがどの刻に交代するのかも。
 女中が朝餉の支度で台所に集まる時間も。
 知らなくていいのだろう。
 守られているから。疑わなくていい立場にいるから。

(羨ましいわ)

 心の何処かで、微かな熱が揺れる。
 首巻きがなければ。
 バンダナがなければ。
 あの迷いのない目は、どうなるのか。あの真っ直ぐな声は、震えるのか。
 取り乱して、泣き叫ぶのか。
 それとも――……誰かの名を呼ぶのか。
 想像するだけで、胸の奥が静かに満たされていく。

「奪えば、壊れるのよ」

 もう一度、今度ははっきりと唱えるように口にした。
 壊れるのは布だけではない。縋る拠り所を失った心は、もっと脆いもの。
 琴はゆっくりと歩き出した。
 足音はほとんど響かない。絹の裾が床を撫でる音だけが、微かに残る。
 横顔からは、先ほどまでの柔らかな笑みは消えていた。
 あるのは、静かな決意だけ。
 焦りも、怒りもない。ただ、確実に手を伸ばす者の顔。
 穏やかな一日は、まだ終わらない。
 笑い声も、茶の湯気も、変わらず流れている。
 けれど、誰も気づかぬ場所で、壊す準備だけが静かに整えられていた。
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