想いと共に花と散る



❁



 薄暗い廊下の奥で、琴は立ち止まった。
 背後では、まだ雪がそこに立っている気配がする。
 振り返らない。振り返る必要もない。

「……失くさない、ですって?」

 誰にも聞こえぬ声が、低く零れ落ちる。
 ゆっくりと、真っ赤な紅が塗られた口元が吊り上がった。
 失くさない。絶対に。そう言った、あの迷いのない目。
 あの、守られてきた者の目。

(あれが、気に入らないのよ)

 胸の奥で、黒い感情が静かに膨らむ。
 何も知らずに。
 何も失わずに。
 守られた記憶を誇るように身に着けて、見せつけてくる様が気に入らない。

「いいご身分だこと」 

 ――あの首巻き。
 ――あのバンダナ。
 雪の喉元に巻かれた白。左手首に結ばれた色褪せた布。
 それらはただの布切れのはずなのに、琴の目には奇妙な光を帯びて映っていた。
 まるで戦を潜り抜けた証のように。誰かに守られ、誰かを守ろうとした証のように。
 勲章。そんな言葉が、ふと胸に浮かぶ。
 琴はゆっくりと、自身の指先を見下ろした。
 白く細い指。何も握っていない。何も残っていない。

「物は、壊れる」

 小さく、確かめるように呟く。
 声は低く柔らかい。けれど、その奥には冷たい芯があった。

「人も、壊れる」

 廊下の奥から、風が抜ける。ガラス張りの窓が風に揺れ、軋む音が微かに鳴った。

「……物の方が、簡単ね」

 くすり、と小さな笑いが溢れると共に唇が歪んだ。
 雪は知らない。
 この洋館の構造も。
 鍵の掛からぬ客間が幾つあるのかも。
 夜半の見回りがどの刻に交代するのかも。
 女中が朝餉の支度で台所に集まる時間も。
 知らなくていいのだろう。
 守られているから。疑わなくていい立場にいるから。

(羨ましいわ)

 心の何処かで、微かな熱が揺れる。
 首巻きがなければ。
 バンダナがなければ。
 あの迷いのない目は、どうなるのか。あの真っ直ぐな声は、震えるのか。
 取り乱して、泣き叫ぶのか。
 それとも――……誰かの名を呼ぶのか。
 想像するだけで、胸の奥が静かに満たされていく。

「奪えば、壊れるのよ」

 もう一度、今度ははっきりと唱えるように口にした。
 壊れるのは布だけではない。縋る拠り所を失った心は、もっと脆いもの。
 琴はゆっくりと歩き出した。
 足音はほとんど響かない。絹の裾が床を撫でる音だけが、微かに残る。
 横顔からは、先ほどまでの柔らかな笑みは消えていた。
 あるのは、静かな決意だけ。
 焦りも、怒りもない。ただ、確実に手を伸ばす者の顔。
 穏やかな一日は、まだ終わらない。
 笑い声も、茶の湯気も、変わらず流れている。
 けれど、誰も気づかぬ場所で、壊す準備だけが静かに整えられていた。
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