想いと共に花と散る
 目が覚めたのは、まだ薄暗い刻だった。
 夢を見ていた気がする。けれど、何の夢だったのかは思い出せない。
 ただ、胸の奥に薄っすらと残る説明のつかないざわめき。

(……寒い?)

 違う。寒さではない。
 布団の中は、きちんと温もりが残っている。息も白くならない。
 なのに、何かが足りない気がしてならない。
 雪は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。
 違和感の正体を探るように、ゆっくりと瞬きをする。
 静かだ。驚くほど、怖いほど静かなのだ。
 廊下を歩く足音もまだない。
 誰も起きていない時間。だからこそ、はっきり分かる。
 いつもある“重み”が、無いことに。

(……重み?)

 そこで、ようやく指先が動いた。無意識に、首元へ手を伸ばす。
 触れるはずの布。朝一番に確かめる、あの感触
 けれど、指先が触れたのは、蝦夷の気温に冷えた素肌だった。
 不快なひやりと冷えた感覚が掌に広がる。
 雪は、瞬きを忘れた。
 もう一度、確かめるように首に触れる。
 何もない。
 布の厚みも、巻かれた結び目も、あの馴染んだ感触も。

「……え」

 小さな掠れた音が喉から漏れる。その声は冷え切った部屋の空気に溶けて消えた。
 理解が追いつかない。いや、まだ寝ぼけているだけかもしれないだろう。
 そう思って、今度は左手首に触れた。
 きゅ、と結ばれているはずの場所。そこにあるはずの、少し硬くなった染みの感触。
 しかし、そこには何もなかった。どれだけ腕をなぞってもあるのは空気だけで、肌が剥き出しになっている。
 ぞわ、と背中を何かが走った。
 雪は勢いよく上体を起こす。布団が滑り落ちる音がやけに大きく部屋に響いた。
 視線が寝台の上を彷徨う。枕元。布団の中。足元。
 何処にも、ない。

「……ない」

 今度は、はっきりと声になった。
 心臓が一拍遅れて強く鳴る。どくんと、耳の奥で自分の鼓動が響いた。
 布団を捲り、敷布を掴んで揺らし、寝台の下を覗き込む。
 やはり、ない。

(昨日、外した?)

 否、外していない。絶対に外していない。
 眠る前、確かに触れたはずだ。首に巻いたまま、手首に結んだまま、横になったはずだ。
 毎日そうしている。外したことなど一度もない。
 喉がひくりと震えた。呼吸が浅くなり、心臓の動きが速く不規則なものになっていく。
 立ち上がろうとして足が縺れた。けれど、躓いて床に膝を打ち付ける痛みさえ感じない。

「はあ……っ、は……」

 部屋を見回した。ありとあらゆる場所に目を向けた。
 机の上。椅子の背。襖の陰。

 ない。

 ない。

「……嘘」

 指先が震えた。視界が、少しだけ揺れる。
 胸の奥が、ぎゅっと何かに踏みつけられたように潰れた。
 あれは、ただの布ではない。
 あれは。
 守られた証。
 背負った覚悟。
 生き残った記憶。
 失ってはいけないもの。

「……っ!」

 涙が込み上げるより先に、怒りとも恐怖ともつかない感情が込み上げた。
 覚束ない足取りで扉に向かい、震える手で扉を押し開けた。
 髪を結うことも忘れたまま、素足で廊下へ飛び出す。
 冷たい床の感触が、ようやく現実を突きつけた。
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