想いと共に花と散る
 目の前に広がる薄橙に向けて足を出した。恐る恐るそこに下ろすと、靴越しにふわりとした柔らかい砂の感触が足の裏に伝わってくる。
 一歩を踏み出して、前を向くと雪は駆け出した。

「わああ……っ!」

 両手を広げて、正面から吹く潮風に抗う。
 目の前に広がるのは、何処までも続く広大な水平線。その向こう側に太陽が沈もうとしていた。
 紺碧と橙が綯い交ぜになった空を映す海は、ゆったりとした動きで打ち寄せる。

「土方さんっ、早くー!」

 波が届かないギリギリまで近づいた雪は、勢いよく振り返った。
 砂浜の真ん中に立つ土方と目が合う。普段の格好よりも幾分か質素で、蝦夷に来てから板についていた黒のトレンチコートは着ていない。
 そんな旧幕府軍陸軍指揮官の土方歳三ではなく、今は函館に移住してきた一般人としてそこにいた。

「滑って海に突っ込むなよ」
「そんなドジじゃないですよ……」

 冗談を真に受ける雪を見て、土方は満足げに笑った。
 水平線を眺める横顔に髪が掛かって、雪からは彼の口元しか見えない。
 そのほんの一瞬、口元が震えた気がした。閉じたまま、一瞬だけ痙攣したように。

「……土方さん?」

 これまでに何百回と呼んできた苗字を呼ぶと、

「……っ」

 どういうわけか、豆鉄砲を食らった鳩のように目を見開いて振り向いた。
 切れ長の目をいっぱいに開けて、雪を見るその顔は驚いているようで。

「どうかしましたか?」

 問いかけても返事はなかった。
 しばらく雪を見て固まってから、土方は目を逸らして再び水平線を見る。
 その横顔があまりに儚く、悲しげに見えたのは雪の気のせいなのかもしれない。

「いや……俺でも分からねぇ」
「え?」
 
 言葉通り、自分でも何を言っているのか分かっていないようだった。
 水平線を見る目には、分かりやすく困惑の色が滲んでいる。
 
「もう、何も分からねぇ」

 その声は、波の音に掻き消されてしまうほど小さくて。

「俺は、何がしたかったんだ」

 その次に聞こえた声は、逆にはっきりとした輪郭を持っていた。
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