妹の悪意を極上の宝石に変える無感情令嬢ですが、追放先の辺境で溺愛騎士様に「笑って」と懇願されています

第4章 バグだらけの騎士様

 ブランネージュ領の朝は遅い。分厚い雪雲が太陽を遮り、窓の外は薄青い静寂に包まれている。
 だが、テオドールの屋敷の一室だけは、異様な熱気に包まれていた。

「……あの、テオ様」
 ルミエールは、ベッドの上で困惑していた。
 背中にはふかふかのクッション。膝には最高級の毛布。
 そして目の前には、湯気の立つスプーンを構えた、筋骨隆々の騎士団長。
「口を開けてくれ、ルミエール。今日は果物を煮込んだスープだ。喉に優しいぞ」
 テオは、戦場で剣を構える時よりも真剣な眼差しで、スプーンを差し出している。
 ルミは、眉をひそめた。
『解析。行動パターン:過保護。目的:栄養補給および精神的充足……理解不能』
 昨夜の錯乱(「殴ってください」という懇願)の後、テオの態度は軟化するどころか、さらに過熱していた。
 彼はルミを「心に深い傷を負った、守るべき硝子細工」として認定したらしい。
「……自分で食べられます」
「駄目だ。君の手はまだ震えている。スプーンを落として怪我でもしたら大変だ」
 スプーンを落として怪我をする人間など、この世にいるのだろうか。
 だが、テオの瞳には一点の曇りもない。本気でそう思っているのだ。
 ルミは諦めて口を開けた。
 甘酸っぱい果実の味が広がる。
「美味しいか?」
「……はい。美味しい、です」
 ルミが答えると、テオは破顔した。
 その笑顔から放たれる「善意」の波動が、直視できないほど眩しい。
 ルミの胃が、キリキリと痛む。
 ——この人は、バグだ。
 ——人間は、もっと利己的で、醜悪なはずだ。こんなに無償の愛を垂れ流すなんて、システムエラーとしか思えない。
 ルミは、テオの隙を探そうとした。
 油断させて、裏の顔を引き出し、悪意を向けさせれば、それを食べて回復できる。
「テオ様は……お忙しいのではないですか? こんな、罪人の娘にかまけていては、領地の皆様に示しがつかないのでは」
 わざと、棘のある言い方をした。
 「邪魔だ」「面倒だ」という感情を引き出すために。
 だが、テオはきょとんとした顔をした後、優しくルミの頭を撫でた。
「君は罪人じゃない。それに、俺の仕事は『領民を守ること』だ。君はもう、俺の大切な領民の一人だ。……いや、それ以上だな」
 テオの手のひらは、大きく、温かかった。
 その温もりが、ルミの凍った心に、じわりと染み込んでくる。
 怖い。
 この温かさに慣れてしまったら、もう二度と、氷の世界には戻れない気がする。
 ルミは、逃げるように視線を逸らした。
「……変な人」

 テオが執務のために部屋を出ると、入れ替わりに白い毛玉がベッドに飛び乗ってきた。
 聖獣の幼体、パフだ。
「きゅ!」
 パフは、ルミの膝の上で丸まると、期待に満ちた目で彼女を見上げた。
 ——お腹すいた。ご飯ちょうだい。
 言葉は通じないが、意思は明確に伝わってくる。
 ルミは、ため息をついた。
「……ごめんね。今は、在庫がないの」
 ルミのポケットには、もうミエルの悪意(ルビー)はない。昨夜、パフが全部食べてしまったからだ。
 そして、この屋敷には、新たな悪意の供給源がない。
 パフは「きゅぅ……」と悲しげに鳴き、ルミの指を甘噛みした。
 その時、ルミは気づいた。
 自分の体内に、わずかに澱んでいる「古い記憶」の存在に。
 それは、幼い頃に父から言われた言葉や、使用人たちの冷たい視線の記憶。消化しきれずに、魂の底に沈殿していた、古い悪意の残滓。
『……これなら、出せるかも』
 ルミは集中した。
 過去の不快な記憶を引っ張り出し、魔力で練り上げる。
 手のひらに、小指の先ほどの、黒く濁った粒が現れた。
 質の悪い、苦いキャンディだ。
「……美味しくないと思うけど」
 ルミが差し出すと、パフは目を輝かせて飛びついた。
 カリカリッ。
 パフは嬉しそうにそれを平らげ、ルミの手に頬ずりをした。
 その瞬間、パフから温かい魔力が逆流してくる。
 ルミの身体が、少しだけ軽くなった。
「……ありがとう」
 ルミは、パフを抱きしめた。
 この奇妙な共生関係だけが、今のルミにとっての命綱だった。
 だが、自分の過去の貯蓄(トラウマ)を切り崩すのにも、限界がある。
 早く、外に出なければ。
 この屋敷の外には、きっと「普通の人間」がいるはずだ。
 よそ者を嫌い、罪人を蔑む、正常な人間たちが。
 彼らの悪意を食べなければ、私は生きていけない。

 午後、ルミは「リハビリ」と称して、テオに連れられて廊下を歩いていた。
 屋敷の使用人たちは、すれ違うたびに深々と頭を下げる。
「お加減はいかがですか、ルミエール様」
「何か必要なものがあれば、おっしゃってくださいね」
 全員、笑顔だ。裏がない。
 ルミは、眩暈を覚えた。
 ここは、本当に現実なのだろうか。全員が何かの魔法にかかっているのではないか。
 その時、廊下の向こうから、鋭い足音が近づいてきた。
 現れたのは、銀縁の眼鏡をかけた、神経質そうな男だった。騎士の制服を着ている。
 副団長のガスパールだ。
 彼は、テオに寄り添うルミを見ると、露骨に眉をひそめた。
「……団長。その方が、例の?」
 冷たい声。
 ルミは、ハッとした。
 ——来た。
 ——警戒。疑念。排他意識。
 ガスパールからは、明確な「負の感情」が漂っていた。
 ルミの【悪意変換】スキルが、微弱ながら反応する。
『悪意感知。濃度:15%。カテゴリー:警戒、職務上の懸念』
 それは「悪意」というよりは「正当な警戒心」だったが、今のルミにとっては、砂漠で見つけた水滴のように貴重だった。
 ルミは、思わずガスパールの方へと一歩踏み出した。
「……あ」
 ガスパールは、ルミが自分に近づいたことに驚き、後ずさった。
「な、何ですか。……私は、貴女を信用したわけではありませんよ。ヴァーミリオン家の毒殺未遂事件、その真相がはっきりするまでは」
 刺々しい言葉。
 だが、ルミにはそれが心地よかった。
 ——もっと言って。
 ——もっと私を疑って。
 ルミの瞳が、期待に潤む。
 ガスパールは、その熱っぽい視線に、たじろいだ。
「な、何なんですか、その目は……。私が何か、おかしなことを言いましたか?」
 テオが、割って入った。
「ガスパール、彼女を怖がらせるな。彼女は無実だ。俺の勘がそう言っている」
「団長の勘は当てになりません! ……まあ、貴方がそう言うなら、監視付きで滞在を認めますが」
 ガスパールは、ふん、と鼻を鳴らして去っていった。
 ルミの手の中には、米粒ほどの小さな氷砂糖が生成されていた。
 ルミは、テオに見えないように、それを口に放り込んだ。
 冷たくて、少し酸っぱい味。
 でも、久しぶりの「他人の味」だった。
「……ごめんよ、ルミエール。あいつは口が悪いが、根は悪い奴じゃないんだ」
 テオが申し訳なさそうに言う。
 ルミは、首を振った。
「いいえ。……素敵な方ですね」
「えっ?」
 テオが目を丸くする。
 ルミは、口の中の氷砂糖を転がしながら、本心から言った。
「あんなに正直な方、初めて見ました」
 この屋敷で唯一、正常な反応をしてくれる人。
 ルミは、ガスパールを「貴重な栄養源」としてロックオンした。
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