妹の悪意を極上の宝石に変える無感情令嬢ですが、追放先の辺境で溺愛騎士様に「笑って」と懇願されています

第6章 聖女と呼ばないで

 翌日、ブランネージュ領は、百年に一度の騒ぎになっていた。
 ルミエールが浄化した雪原から、季節外れの「冬小麦」が一斉に芽吹いたのだ。
 黒い呪いが消え、土地の魔力が正常化したことで、眠っていた種子が爆発的な成長を遂げたらしい。
 屋敷の前には、朝から領民たちが押し寄せていた。
「聖女様! 聖女様、万歳!」
「俺たちの畑が蘇った! これは奇跡だ!」
「ありがとう、ありがとう……!」
 窓からその光景を見下ろすルミは、カーテンの陰に隠れて震えていた。
『状況:包囲されている。敵性反応:なし。善意濃度:測定限界突破』
 領民たちは、手に手に貢物を持っていた。
 採れたての野菜、絞りたてのミルク、手編みの靴下。
 それら全てに、「感謝」と「崇拝」という、ルミにとっては消化不能なエネルギーが込められている。
「……どうして、こうなったの」
 ルミは頭を抱えた。
 ただ、お腹が空いて、地面に埋まっていた「古い悪意(ゴミ)」を食べただけだ。
 それが、なぜか「奇跡」と解釈され、感謝されている。
 足元では、中型犬サイズに成長したパフが、「きゅふふ」と得意げに喉を鳴らしている。昨日のマカロンがよほど美味しかったのか、毛並みが真珠のように輝いていた。
 扉がノックされ、テオが入ってきた。
 彼は、困ったような、しかし誇らしげな笑顔を浮かべている。
「ルミエール。皆が君に会いたがっている。……少しだけ、顔を見せてやってくれないか?」
「無理です」
 ルミは即答した。
「あんな大量の善意を浴びたら、私は消化不良で死にます」
「またそんな冗談を……。照れ屋だなあ」
 テオは、ルミの言葉を「謙遜」だと解釈し、優しく背中を押した。
「大丈夫。俺が横にいる。君はただ、手を振ってくれればいい」
 逃げ場はなかった。
 ルミは、死刑台に向かう囚人のような足取りで、バルコニーへと出た。
 ワァァァァッ!
 歓声が爆発する。
 ルミの全身に、数千人分の「ありがとう」が突き刺さる。
 眩しい。熱い。苦しい。
 ルミは、引きつった無表情で、ぎこちなく手を上げた。
 それだけで、領民たちは涙を流して拝み始めた。
『理解不能。……人間は、ゴミ処理業者にこれほど感謝するものなのか?』
 ルミのデータベースに、新たなエラーログが刻まれた。

 騒ぎが一段落した午後、屋敷に一人の来客があった。
 エティエンヌ・ド・サン・トワール。
 テオの祖父であり、先代の辺境伯だ。長い白髭を蓄え、車椅子に乗っているが、その眼光は鋭い。
 応接間に通されたルミは、緊張して身を固くした。
 ——この人は、きっと私を見抜く。
 ——私が聖女などではなく、悪意を喰らう化け物だと。
 エティエンヌは、テーブルの上に置かれた「宝石」をじっと見つめていた。
 それは、ルミが昨日の浄化で生成したものの残りだ。呪いの濃度が高かったため、お菓子ではなく、純度の高い黒曜石やサファイアに変化していた。
「……これは、そなたが作ったのか?」
 しわがれた声が問う。
「……はい。地面の汚れを固めただけです。すぐに捨てますから……」
「待ちなさい」
 エティエンヌは、震える手で、深い青色のサファイアを手に取った。
 そして、それを光にかざし、静かに涙を流した。
「……ああ。これは、あの日、戦場に散った兵士たちの『願い』の色だ」
 ルミは、目を見開いた。
「願い……? いいえ、それは『恨み』です。痛くて、苦しい、呪いです」
「そうかもしれん。だが、そなたはそれを浄化した」
 エティエンヌは、ルミの方を向き、穏やかに微笑んだ。
「恨みを恨みのまま終わらせず、こんなに美しい宝石に変えた。……これは、彼らの魂が救われた証拠だよ」
 救われた。
 その言葉が、ルミの胸に重く響いた。
 私は、食べただけ。
 自分のために、彼らの無念を消費しただけ。
 それなのに、救ったと言われるのか。
「ありがとう、お嬢さん。この年寄りの目が黒いうちに、この土地が救われるのを見られるとは……長生きはするもんじゃな」
 エティエンヌは、深々と頭を下げた。
 その姿から放たれるのは、テオのそれとはまた違う、静かで、深い、感謝の念だった。
 ルミの胸の奥が、きゅっ、と痛んだ。
 それは、空腹の痛みではない。
 もっと切なくて、むず痒い、未知の感覚。
『解析。……胸部圧迫感。心拍数上昇。……病気?』
 いいえ、と何かが囁く。
 これは、病気ではない。
 これは、あなたが初めて受け取った、「肯定」の温かさだ。

 その夜。
 ルミは眠れず、中庭のベンチに座っていた。
 隣には、大きくなったパフが寄り添っている。パフの体温は、湯たんぽのように温かい。
 空には、満月が輝いていた。
 王都を出る時に見た月と同じはずなのに、今日の月は、どこか優しく見える。
「……眠れないのか?」
 背後から、テオが声をかけてきた。
 彼は、ルミの隣に腰を下ろした。距離が近い。
「……今日はお疲れ様。みんな、君に感謝していたな」
「……私は、あんな風に称えられる人間じゃありません」
 ルミは、膝の上で手を握りしめた。
「私は、ただの……」
 化け物です、と言おうとして、言葉が詰まった。
 エティエンヌの言葉が、脳裏をよぎる。『魂が救われた証拠だよ』。
 もし、私の力が、ただの食事ではなく、誰かの救いになるのなら。
 私も、ここにいていいのだろうか。
 テオは、ルミの顔を覗き込んだ。
「ルミエール。君は、自分のことを過小評価しすぎている」
 彼は、ルミの手をそっと取った。
「君が何をしたか、どうやったか、それは重要じゃない。重要なのは、君のおかげで、みんなが笑顔になったという事実だ」
 テオは、月を見上げた。
「俺もだ。君が来てから、この屋敷は明るくなった。……君がいてくれて、本当によかった」
 ドクン。
 ルミの心臓が、大きく跳ねた。
 悪意のない言葉。
 純度100%の好意。
 いつもなら、恐怖して拒絶するはずのものが、今夜は、不思議と怖くなかった。
 むしろ、もっと欲しいと、心が渇望している。
「……テオ様」
「ん?」
「私……嬉しい、のでしょうか」
 ルミは、自分の胸に手を当てた。
「ここが、痛いんです。でも、嫌な痛みじゃなくて……ふわふわして、泣きたくなるような……」
 テオは、目を見開いた。
 そして、破顔した。
「ああ。それは『嬉しい』という感情だ。……やっと、戻ってきたんだな」
 テオは、ルミの頬に触れた。
「笑ってごらん、ルミエール。君の笑顔は、きっと素敵だ」
 笑う。
 表情筋の動かし方を、ルミは忘れていた。
 でも、自然と、口角が持ち上がる感覚があった。
 ぎこちなく、震えながら。
 ルミは、月明かりの下で、小さく微笑んだ。
「……こう、ですか?」
 それは、まだ不完全で、儚い微笑みだった。
 だが、テオにとっては、どんな宝石よりも美しい光景だった。
「ああ。……最高に、綺麗だ」
 テオの声が、熱を帯びる。
 ルミは、顔が熱くなるのを感じた。
 これが、恥ずかしいという感情?
 これが、嬉しいという感情?
 世界が、色を取り戻していく。
 灰色だった視界に、月の黄色、夜空の藍色、そしてテオの瞳の琥珀色が、鮮やかに焼き付いていく。
『システム更新。感情回路、再接続。……状態:良好』
 ルミは、テオの手を握り返した。
 この温かさを、もう怖いとは思わなかった。

 だが、ルミはまだ知らなかった。
 この幸せな時間が、王都からの黒い影によって、間もなく脅かされることを。
 彼女の「悪意変換」スキルが、世界を揺るがす価値を持つことに、外の世界が気づき始めていた。
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