山に捨てられた前世病弱令嬢は、神獣の愛し子となる
第一話 前世病弱令嬢、山に捨てられる
大陸随一の大きさを誇るロドリア王国には、人が決して立ち入ってはならぬとされる山がある。
恐ろしく巨大で凶悪な山犬が出る。
魔物の根城となっている。
魔女が住んでいる。
一度足を踏み入れると生きては帰れない。
何が本当で何が嘘かは定かではないが、名もなき山は長らく不可侵の領域とされてきた。
その山が位置するのはロドリア王国の東、ラサージュ侯爵家の領地内である。
建国当時から山はラサージュ侯爵家によって厳しく管理され(といっても、立ち入ることはできないため、人が入らないように目を光らせるのみであるが)、今日まで人々に恐れられている。
ラサージュの領地は広大で、自然豊かな肥沃な土地である。
現在、彼の地には、自然に囲まれてのびのびと奔放に育った一人の娘がいる。
クラリス・ラサージュ。五歳。
野山を駆け回り、自然を愛し自然と共に生きてきた。
腰までの長さがあるアクアマリン色の髪は、燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて鮮やかに輝き、黄金の瞳はいつも好奇心に満ちている。
両親はとても優しく、クラリスに無償の愛を注ぎ込んでいる。
侯爵令嬢としてのマナー教育はやや遅れ気味であるが、自然や動物を深く愛する心優しい子に育っている。
そんなクラリスにも、唯一立ち入りが禁止されている場所があった。
それはもちろん、不可侵の山である。
「私たちの可愛いクラリス。自然を愛し、思いやりのある愛しい我が子。我が領地は全てクラリスの庭だ――と言いたいところだが、一箇所だけ、決して立ち入ってはならぬ場所がある」
「どこでちゅか?」
「ああ、可愛いクラリス。見えるかい? あの高く聳える山が。あの山にだけは、立ち入ってはならないよ」
「どうちて?」
「恐ろしい化け物が住んでいるんだ。怒りを買えば、生きては帰れまい。一度山に踏み入ったが最後、二度と出られなくなると思いなさい」
ラサージュ領の中でも飛び抜けて存在感を放つ異様な山。クラリスが生まれた時からその山はそこに聳え立っていた。
山頂付近はいつも厚い雲に覆われていて、標高がどれほどかすら分からない。
山の管理の都合上、数代前に侯爵家の屋敷は山からそう遠くない場所へと移され、クラリスにとってその山は見上げればいつもそこにあった。
物心ついた頃から、決して近づくべからずと言い聞かされて来たが、クラリスはいつかあの山に行きたいと思い続けている。
どうしてか、無性に惹かれるものを感じるのだ。
それに、駄目と言われると、行きたくなるのが人間の性だとクラリスは思っている。
だが、愛する両親を悲しませるようなことはしたくない。二度と会えなくなるのも嫌だ。
その気持ちがクラリスの好奇心をギリギリのところで抑えてくれている。
建国時から人の立ち入りを拒む山。
見知らぬ動物がいるかもしれない。
きのみや果物など、未知の植物が自生しているかもしれない。
今までに見たことがないような美しい花が咲き誇っているかもしれない。
そこには一体、どんな景色が広がっているのだろう。
クラリスが愛する両親の言いつけを破って勝手に山に近づくことはない。
けれど、クラリスはずっと不可侵の山に憧れの気持ちを抱き続けている。
◇◇◇
二年後――
「お嬢様! おやめください!」
「えー、いやよ」
ヒョイッヒョイッと木の枝から枝へと身軽に飛び移るのは猿――ではなく、一人の少女。
「また奥様に叱られても知りませんよ!」
「レオが内緒にしてくれたらバレないわよ」
「まったく……それなら、もっと屋敷から死角になっている場所でしてください」
「あはっ、レオの方がよっぽど狡賢くないかしら」
少女の名はクラリス。
ラサージュ侯爵家の長女として生を受けた生粋の貴族であるが、幼い頃から行儀作法よりも野山を駆け回るのが好きなお転婆な性格をしていた。
ハイハイを覚えるや否や猛烈な速さで中庭を動き回って乳母を困らせた話は、今でも笑い話の一つとして食卓を賑やかにしている。
そして、そんなクラリスを呆れ顔で咎めるのは、従者兼護衛のレオ。
十二歳にして剣の腕は領内でもトップクラスに入る騎士見習いだ。光を通さない漆黒の髪に、琥珀色の切れ長の瞳がクールな印象を与える少年である。だが、五つ年下の主人に振り回される日々を送っているレオは、すでに仲間内で同情の目で見られている。
「まったく、お目付役の俺の身にもなってくださいよ」
「うふふ、私の従者になったのが運の尽きね。諦めなさい」
ため息を吐きつつも、レオの目はとても優しい。
まるで眩しいものを見るような目で幼い主人を見つめている。
「……ま、離れろと言われても離れるつもりはないですけど」
到底忠誠心では言い表せない感情を孕んだ視線と言葉は、ブラブラと枝にぶら下がるクラリスには届かない。
「ほっ!」
さて、レオの助言(?)を素直に受け取ることにしたクラリスは、一旦木から降りるために身体を前後に大きく振って勢いをつけてから枝を持つ手を離した。
「はあっ!? ちょっ、危ないですって!」
レオの焦った声が聞こえるが、クラリスは身体をしならせた勢いを活かしてクルクル回転しながら軽やかに地面に着地をした。しっかりと両手を上げて、決めポーズを忘れない。
「大丈夫よ、これぐらい」
「ったく、これだから小猿は……あっ!」
思わず溢れた言葉を拾うようにレオが慌てて口を押さえるが、吐息と共に紡がれた言葉は確かにクラリスの耳に届いた。
レオは気まずそうにしているけれど、クラリスは知っている。
スルスルと木に登っては、身軽な動きで枝から枝へと飛び移る様子から、『小猿令嬢』と揶揄されていることを。
しかしそれは嫌味ではなく、愛称のようなものなので、クラリスは気にしていない。
ラサージュの地にいるのは、彼女を大切に思い見守ってきた者ばかりだから。
――ほんの数ヶ月前までは。
クラリスが六歳の誕生日を迎えて間もなく、最愛の母エリスが病気で天へと旅立った。
クラリスも父も、屋敷の使用人も領民も、誰にでも分け隔てなく接する心優しきエリスの死を嘆き、悲しみに暮れた。
まだまだ甘えたい盛りのクラリスも、しばらくは大好きな野遊びをすることなく生前の母の部屋に籠る日々を送っていた。
クラリスにはまだ母という存在が必要だ。
そう判断した父のライオスは、積極的に夜会に参加し、エリスの死から一年後に後妻を娶った。
名をシャルロットといい、彼女もまた夫を亡くした未亡人で、クラリスより一つ年下の息子がいた。
二人は心にポカリと空いた穴を埋め合うように、再婚を決めたという。父にもまた、寂しさを埋める存在が必要だったのだ。
父の前では、シャルロットはクラリスに優しかった。
けれど、シャルロットはクラリスが野山を駆け回ることにひどい嫌悪感を抱いている様子である。
「歴史あるラサージュ侯爵家の者として、模範となる言動をしなさい」
彼女はクラリスが外にいるのを見つけては耳にタコができるほどに貴族のあり方を懇々と語って聞かせた。
やがて野遊びをする時間が減り、机に向かって本と睨み合う時間が増えていった。
同年代の貴族令嬢たちとの茶会も定期的に催されるようになり、重くて動きにくいドレスを着せられて気持ちもズシンと重しが乗ったように沈んでいった。
こんなドレスなんか脱ぎ捨ててしまいたい。
ドレスより、身動きの取りやすい軽い生地のワンピースやパンツスタイルの方がずっといいのに。
王都の流行やファッションの話に花を咲かせる令嬢たちをどこか遠い目で見つめていたクラリスが思いを馳せるのは、青く瑞々しい草原、色とりどりの花を咲かせる花畑――そしていつもクラリスを見守ってくれている荘厳な山のこと。
(貴族社会に生きるより、山で自由に暮らしたいわ)
いつしかクラリスは、そんなことを思うようになっていた。
◇◇◇
「クラリスさん、あなたあの山に行きたいと以前おっしゃっていたわよね」
ある日、いつものように家庭教師の到着を待っていると、義母のシャルロットに声をかけられた。
彼女がお説教以外にクラリスに声をかけるのは珍しいことだ。
少し警戒しながらも、クラリスはコクリと頷いた。
その黄金の瞳には、好奇心と、僅かばかりの期待の色が濃く映し出されている。
「はい。不可侵の山には一体何があるのか、どんな景色が広がっているのか、とても気になります」
「そう」
正直に答えたクラリスに、シャルロットは機嫌を損ねることなく、むしろ満足げに口角を上げた。
「実はね、侯爵様から馬車で山の麓まで近づいてもいいと許可をいただいたの」
「えっ! 本当ですか!?」
不可侵の山には近づくことすら許されていなかったクラリスは、パァッと目を輝かせた。
いつもその偉大な姿を屋敷から眺めるばかりだったけれど、麓からその姿を仰ぐことができるなんて。
「今回だけ、特別にということです。行きますか?」
「はいっ!」
クラリスはシャルロットの誘いに、二つ返事で頷いた。
義母の口元が歪むように吊り上げられているとも知らずに――
◇◇◇
「うわあ……近くで見るともっとずっと凄いわ……」
早速クラリスは、シャルロットが手配したという馬車で不可侵の山の麓に降り立った。
クラリスだけ特別にということで、レオの同伴は認められなかった。何も知らないレオは今頃騎士団で剣を振るっている。
山の周りには、『この先立ち入り禁止』という看板が等間隔で立てられており、その間を縫うように木の柵で囲われている。
山にはただならぬ異様な雰囲気が満ちていて、山自身も異物の立ち入りを拒んでいるように見える。
「過去にこの山に踏み入った者は、誰一人として戻って来なかったと言われています」
「そう……」
ザッと地面を踏む音がして振り向くと、御者の男がクラリスの後ろに立っていた。
山を仰いでいて、クラリスの角度からその表情は窺えない。
そういえば、初めて見る御者だ。
シャルロットが新たに雇ったのだろうか。
そんなことを考えながら、視線を再び山に向けた時――
「そう、この山に入った者は、二度と戻って来れない。初めまして、さようなら。お嬢様――」
「えっ、んんっ!」
頭上に影が差したかと思うと、素早く布で口を塞がれて、クラリスの身体がふわりと浮いた。
ジタバタと手足を動かすも、次第に意識が薄らいできた。
「ギャハハ! まったく、楽な仕事だぜ! 世間知らずでお気楽なお嬢様を山に捨ててくるだけでいいんだからなあ! 恨むならあんたの義母を恨むこったなあ」
耳の奥で、男の下品な笑い声がこだまする。
視界の端で、男が柵を軽々と乗り越えて山に踏み込んでいく様子を捉えた。
(ああ、山に入ってはいけないのに――ごめんなさい、お父様、お母様……)
頭の中で両親に謝罪をしたところで、クラリスの意識は途切れた。
男は縄を木の柵に結び、反対側を手で握りしめながら、臆することなく奥へ奥へと歩みを進めていく。
鬱蒼とした森に風が吹き抜けて、木々が不気味な音を立てながら二人を飲み込んでいった。
◇◇
『はあ、せっかく侯爵夫人になったっていうのに、女でも家督を継げるというのだから驚いたわ。私の可愛いたった一人の息子こそ次期侯爵に相応しいというのに! どうしてあんな小猿のような教養のない娘が後継者なのかしら。納得できないわ』
シャルロットがラサージュ侯爵家にやって来て間もない頃、クラリスは彼女の本音を聞いてしまった。
母の死から一年で新たな母がやって来た。
複雑な心境ではあったが、父が選んだ人なのだからと、クラリスも仲良くなりたいと思っていた矢先のことだった。
(……私が邪魔なんだわ)
シャルロットは暴力こそ振るわなかったものの、ことあるごとに実の息子でありクラリスの義理の弟となったディオンと比較してきた。
息子こそが家督を継ぐに相応しい、お転婆で座学よりも野山を駆け回ることを好むような娘に、この広大な領地を管理できるはずもない、と言われ続けてきた。
もちろん、父や使用人の目が届かない時を選んで。
そんなことを言われても、ラサージュ家の第一子であり、正当な後継者であるクラリスが次期女侯爵となることは、生まれた時から決まっていたこと。
クラリスは小言や嫌味を言われるたびに、心の中でため息をついた。
(私はこの地で自然と共に自由に生きていきたいだけなのに……)
物心ついた時から、外に飛び出したい衝動が抑えられなかった。
どうしてそんなに野山に惹かれるのか、疑問に思うほど自然が大好きなのだ。
◇
◇◇
◇◇◇
「う……ここは?」
クラリスが目を覚ますと、あたりは鬱蒼とした森だった。
まだぼんやりとする頭をゆっくりと起こして、大きな木の幹に背中を預けて周囲を見渡す。
日の光が差し込まないほど、枝葉が天に向かって伸びて空を覆い隠している。
辺りにはうっすらと霧が満ちていて、太陽の高さからおおよその時間を知ることも叶わない。
不気味なほどに静かで、時折木の葉が擦れる音だけが鼓膜を揺らす。
近くにクラリスを担ぎ上げた男の姿はない。
きっと、この場所にクラリスを捨て置いてずらかったのだろう。
彼が無事に山の外へと出られたのかは定かではないが、自分をこんな目に合わせた男の心配をするほどクラリスに余裕はない。
深く息を吸い、吐く。
胸いっぱいに森林の匂いや空気が満ちていき、クラリスは思わず感嘆の吐息を漏らした。
「すごい……とっても深いし、空気が他の山とは全然違うわ」
男は、恨むなら義母を恨めと言っていた。
きっと、今回のことは義母のシャルロットが企てたことだろう。
愛する一人息子を領主にするためには、クラリスは邪魔な存在だった。
だから、一度足を踏み入れると二度と戻れないと言われる山の奥深くに捨てたのだ。
二度とクラリスが彼らの前に姿を現さないように。
普通の令嬢であれば、孤独と恐怖に押し潰されて気が狂ってしまいそうなものであるが、クラリスは違った。
(どうしてかしら。こんな状況なのに、私、ワクワクしているわ)
ゆっくりと立ち上がり、少し歩いてみる。
サク、サク、と落ち葉を踏み締める音だけが響く静寂の世界。
どこからともなく立ち込める霧が、歩みを進めるごとに深く白く辺りを満たしていく。
どうせ山を降りることが叶わないのなら、命許される限りこの山を堪能しよう。
クラリスはそんなことを考えながら、奥へ奥へと歩みを進めていく。
方向感覚を狂わせる霧の中、何かに見られているような、腹の底を探られているような妙な感覚を覚える。
この先には一体何が待ち受けているのか、クラリスには分からない。
今、クラリスは幼い頃から憧れていた場所にいる。
クラリスの好奇心はうずうずと刺激され、導かれるように山の奥へと進んで行った。
◇
どれほど歩いただろう。
周囲の景色は変わらず、緩やかな斜面に鬱蒼とした森が広がっているばかりである。
まっすぐ進めているのか、はたまた同じ場所をぐるぐる歩いているのか、山を登っているのか下っているのかすら分からない。
けれど、クラリスは歩みを止めない。
目覚めた時にはうっすら周囲を覆っていただけの霧は、すでにクラリスの視界のほとんどを奪ってしまうほどに深く立ち込めている。
もはや、これが現実なのか、眠りから覚めていなくて未だ夢の中に居るのかすら分からなくなっている。
心の中を探られているような感覚が妙に気持ち悪い。
真っ白な景色が、重複したように霞んでいき、かつての見知った景色が眼前に広がった。
白い壁、白い天井、白いベッド。
ベッドの上には黒い髪の線の細い少女が横たわっている。少女の腕からは何本も管が伸びていて、死の淵にいることが明らかだ。
そうだ、クラリスは生前、ほとんどの時間をこの部屋と白いベッドの上で過ごした。
ベッドで寝ているのは、生前のクラリス――つまり、前世のクラリスだ。
生まれつき呼吸器官が弱く、外で遊ぶのはもってのほか、少し歩くだけで息が上がって高熱が出た。
長い病院生活で限られた娯楽の中、退屈な日々を彩ってくれたのは、動画配信サイトで見ていたキャンプ動画やDIY動画。
自然と一つになり、限られた道具で絶品のキャンプ飯を作り、満天の星を仰いで眠りにつく。
現地調達した素材を加工して作るモノづくりの楽しさ。
大自然の雄大さと偉大さ。
こんなものまで手作りできるのかと、人の手の可能性を目の当たりにしてワクワクと胸が躍ったものだ。
けれど、どれも前世のクラリスには縁遠いものであり、だからこそどうしようもなく心惹かれた。
――そうか、だから私はこんなにも山や川、草原といった自然の中に飛び出さずには居られないのね。
前世の記憶と今世の記憶が混在し、頭に鈍い痛みが走る。痛みと同時に前世の光景が霧散したが、今世との記憶と馴染んでいく奇妙な感覚だ。
いつの間にか、視界は完全に真っ白になってしまっていた。
「あっ」
クラリスは地面から剥き出しになっていた木の根に足を取られて転んでしまった。
頭が重くて目を開けていられない。
ゆっくりと瞼が落ちていく。
最後に目に入ったのは、サク、サク、と落ち葉を踏み締める真っ白な毛で覆われた大きな獣の脚だった。
◇◇
「う……あれ? 私……」
再び意識を浮上させたクラリスの頭に、走馬灯のようにこれまでの情報が流れ込んでくる。
クラリスは前世、病弱な子供として生まれて、外を駆け回る同年代の子供達を羨ましく思いながら動画配信サイトでキャンプ動画やDIY動画を毎日のように見ていた。
確か、夏風邪を拗らせて肺炎を起こしてしまい、わずか十五歳の時に前の人生は幕を閉じたはず。
前世の記憶が戻ったことで、思考は十五歳なのに身体は七歳という何とも奇妙な感覚がする。
改めて振り返ってみると、今世は前世と比べ物にならないほど健康優良児に生まれたものだ。
野山を駆け回り、木に登り、花を摘み――幼い頃の記憶は喜びに満ちている。
最愛の母を病気で亡くし、義母が来てからは憂鬱な日々を過ごしていたけれど、まさか立ち入り禁止の山に捨てられるなんて。
クラリスのことが邪魔なのはよく分かっていたけれど、我が家は女でも家督を継げるのだから仕方がない。そう決めたのはクラリスではないし、侯爵位にも興味ないけれど、緑豊かな領地を愛しているし、そんな領地を守るために必要であればお父様の後を継ぐつもりだった。
本当にこの山から出ることができないのかは分からないけど、クラリスを亡き者にしようとした義母がいる屋敷にノコノコ帰るぐらいなら、この山で自給自足の生活をした方がずっと楽しそうだ。
誰かがしっかりと領地経営をしてくれるのなら、クラリスが爵位を継ぐことは重要ではない。義弟は寡黙であまり笑顔を見せないタイプであるが、一生懸命領地経営について学ぶ姿勢を見せている。彼に任せていれば、領地も領民も大丈夫だろう。
「うん、そうよね。貴族社会で生きるより、野山を駆け回っていた方がずっと楽しいもの」
この山に捨てられたということは、死んだものとして扱われるはず。
つまり、これでクラリスが貴族令嬢らしく振る舞う必要は無くなったということだ。
幸い、今日の服装は山に近づくために風通しがよく動きやすいワンピースだ。
まずは生活拠点を見つけて、寝床を確保しなくては。
あと、飲み水は欠かせない。
(よし、そうと決まればいつまでも倒れているわけにはいかないわ)
クラリスは気合を入れて、閉じていた目をカッと開いた。
「うわあっ! 起きたぞ!」
「おい、どうする?」
「どうするもこうするもないだろう。まずは自己紹介をしなくては……」
「そんな悠長な……だが、そうだな。事情を説明することが急務か」
「え…………?」
目を開けたクラリスの視界に飛び込んできたのは、仰向けに倒れるクラリスの顔を心配そうに覗き込んでいた者たちの慌てふためいた顔。
いや、そんな風に見えるってだけで、実際のところその表情を端的に読み取ることは難しい。
だって目の前にいたのは、真っ白で美しい毛並みと青く深い瞳を持つ巨大な狼、虹色の羽を靡かせる尾が長く美しい鳥、理知的な瞳をした二足歩行の猫、そして全身を植物に覆われた植物人間だったから。
「えっと……どちらさまですか? もしかして私、食べられちゃうの?」
なんということでしょう。
これから始まる新しい生活に思いを馳せていたというのに、どうやら今世のクラリスの人生もここまでらしい。
クラリスをぐるりと取り囲む獣たちは、みんな見たこともないぐらい大きい。クラリスのような小娘なんて、ペロリと食べてしまえるだろう。
なるほど、この山に入ったものは二度と戻らないと言われているのはあながち間違いじゃないというわけか。
きっと、先人たちはこの獣たちの餌になって骨も残らず食べられてしまったに違いない。
不思議と恐怖は湧いてこない。
いや、脳が現実逃避しているだけなのだろうか?
せめて痛みなくこの世を去りたい。
「いやいや、食べるわけがないだろう」
「ああ、そうだ。まずは少し話をしよう」
両手を胸の前で組んで、自らの運命を受け入れる体勢で食べられるのを待っていると、クラリスの頭上で獣たちが慌て始めた。
「とにかく座りなさい。ああ、喉が乾いただろう? 水を飲むといい」
狼がそう言って、植物人間に合図をすると、メキメキッと彼女の手から木の枝が伸びてあっという間に木製のコップができあがった。そして彼女がコップに手を添えると、美しく澄んだ水がコップに満ちた。
「あ、ありがとう、ございます」
目の前で起こったことが摩訶不思議すぎて、思わず何度も目を瞬いてしまう。
「座ったままだと飲みにくいだろう。さあ、私にもたれかかるといい」
「え、何から何まですみません」
狼はクラリスの身体の下に大きくてもふもふの尻尾を滑り込ませて起き上がる手伝いをしてくれた。
そのまま尻尾に包み込まれて、ふわふわのソファのようになる。
お言葉に甘えて少し体重をかけると、ふわりと身体が沈み込んで気持ちがいいし何だかいい匂いがする。
「いただきます」
植物人間さんからコップを受け取り、水で喉を潤す。
「ん、美味しい……!」
素直に飲んでしまったが、少し不用心だっただろうか。
けれど、彼らからは悪意を感じない。
ひとまず、これから一体どうなってしまうのか、まずは話を聞いてみることには始まらない。
クラリスは味わうように水を飲み干してから、ゆっくりと顔を上げた。


