完璧上司と夜を越えたら 〜隠れ御曹司とはじめる秘密のお試し恋人〜

完璧上司との一夜

 絞られた暖色のライトが飴色のテーブルを照らし出している。

「まったく、いやになる……」

 三吉(みよし)妃菜子(ひなこ)の憧れの上司――桐生(きりゅう)佳貴(よしたか)はそう言うと、バーカウンターの隣の席で前髪をかきあげた。その横顔は、普段の理知的で隙のない上司とは少し違って見える。率直に言えば、妃菜子はそこに、大人の男の色気を感じ取ってしまったのだ。
 ゆえに――その頬から首筋を撫でるように触れたのは、ほとんど無意識の行動だった。

「……それは、誘っていると解釈していいのかな」

 ハッと我に返り、手を引こうとしたときにはもう、その手は彼に囚われていた。指と指とを絡め、深く握り込まれて、妃菜子は息を呑む。

「あ、の……放して、くださ……」

 なんとか抵抗の言葉を述べたものの、そこに大した効力はなかったようだ。
 佳貴の口元がミステリアスな微笑を浮かべる。

「放してほしいなら、振り払えばいい。僕がさほど力を入れていないのは分かっているだろう?」

 そう言われてしまえば、妃菜子は口ごもるほかない。彼の言葉はあまりにも正しすぎたからだ。
 佳貴の手はこちらの手をしかと捉えてはいるけれど、その力は絶妙に加減されていて、おそらく妃菜子が全力を出さずとも振りほどけてしまうだろう。

 ――なのに、どうして私はそうできないの?

 彼のことは、ただの上司としか思っていなかったはずだ。
 若手の誰よりも優秀で、憧れの相手。それだけのはずだったのに――


   *


 妃菜子が憧れの上司とそんな展開に至った発端は、同棲していた彼氏の浮気が発覚したことによる。
 その日、めずらしく定時に上がれた妃菜子はいつもよりだいぶん早い時間に帰途についていた。
 彼氏は在宅で仕事をしているため基本的には家にいるが、妃菜子が帰ったときにはちょうど外出していたらしく、姿が見えなかった。
 二人で暮らしている部屋はカップル用の1LDKで、一つしかない寝室は共有で使っている。
 妃菜子はまず着替えようと寝室に向かったが、足を踏み入れたところで違和感を覚えた。どうもいつもと様子が違うように思えたのだ。
 見ると、出勤前に整えたはずのシーツが乱れている。
 だが、それだけなら彼が仮眠をしたのだと考えることもできた。彼が仕事の合間に休憩でベッドに入るのはよくあることだったからだ。
 しかしそのときの妃菜子はどうにも腑に落ちなかった。

 ――なんだろう、部屋の匂いが違う? のかな……

 首を傾げながらベッドのそばまで歩き、何気なく枕元を見下ろす。そこで視界に入ってきたのは、ベッド脇に置かれているゴミ箱だった。

「――!!」

 その中を目にして、妃菜子は咄嗟に自身の口元を押さえる。そうしなければ悲鳴を上げていたかもしれない。
 そこに無造作に捨てられていたのは、中途半端にティッシュで包まれた使用済みの避妊具だったのだ。
 いやに早まる動悸を抑えて、妃菜子は必死に記憶を遡る。彼に最後に抱かれたのは、いつだった?
 それほど最近ではない。近頃は、生活のリズムやタイミングが合わなくてすっかりご無沙汰だったから。
 いや、そんなことを考えるまでもなく、これが妃菜子との行為に使われたものでないことは明白だった。なぜなら今日はゴミの日で、このゴミ箱の中身も朝に一緒に出したのだから。

 ――今朝、私が出勤したあとに、誰か来たんだ。その女性とここで寝たんだ。

 そうと確信した途端、毎日二人で眠っているベッドがおぞましいものに思えてくる。思わず壁際まで後ずさったとき、右手がクローゼットの戸に当たり、ガタンと大きな音をたてた。
 妃菜子はハッとしたようにクローゼットに向き直り、戸を開く。下段に入っているのは、海外旅行にも持っていけるほどの大きなキャリーケースだ。
 妃菜子はそれを取り出すと、部屋中にある自身の所有物を猛然と詰め始めた。



 結論から言うと、妃菜子は同棲していた家をその日のうちに出ることになった。もちろん自分から出ていったのである。それでもそこに至るまでの顛末は、気持ちのいいものではなかった。

「なんだ、帰ってたのか?」

 そんな声とともに家に戻った同棲相手は、妃菜子がキャリーケースを前にしゃがみ込んでいるのを見て「出張にでも行くのか?」と呑気に尋ねた。
 だから、妃菜子は容赦なくゴミ箱の中身を突きつけ、どういうことか問いただそうとした。
 しかし彼は、一瞬狼狽した様子を見せたものの、すぐに開き直り、あろうことか、妃菜子のことを最悪だと罵倒しはじめたのである。

「最悪って、なにが……」
「そりゃ、人がバレないように気を遣ってやってんのをこうやってわざわざ暴いてくるからだろ」

 まるでこちらに配慮して隠れて浮気してやっていたのだと言わんばかりの物言いに、妃菜子が唖然としたのは言うまでもない。
 そこからは、聞くに堪えない身勝手な暴言が続いた。

「どうせ潮時だった」
「お前と一緒にいると疲れる」
「全部ちゃんとしないとダメって感じが正直しんどい」

 まさか恋人にそんなふうに思われていたとは露知らず、妃菜子はショックのあまり膝から崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえていた。

「……だから、浮気したの?」

 震える声で尋ねると、彼はへらりと笑って言った。

「〝浮気〟って言うなよ。単に盛り上がってる相手ができた、ってだけだろ」

 そういうのを浮気と言うのだろう。そう思うのに、ここまで堂々とされると、まるで自分の価値観のほうが間違っているような気がしてくる。頭が痛くなりそうだった。

「でも、ま、バレちまったなら仕方ねえよな。お前とは、今日で終わりってことで、いい?」

 自分が振られる形になっているのは口惜しかったが、妃菜子はこの短い会話の間にこれ以上ないほど疲弊していた。早くこの場から立ち去りたかった。だから。

「……分かった。私、出ていくね」

 そうして家を出てきたのが、午後七時のことだった。



 キャリーケースを引く音が、夜の住宅地に虚しく響く。
 どこに行くかは決めていないが、足は自然と駅に向かい、いつも通勤に使う電車に乗っていた。
 車窓を流れる景色を妃菜子はなんとはなしに眺め、これからどうしようと思考を巡らせる。
 実家はすぐに帰れる距離ではないから、明日からも会社に行かねばならないことを考えると選択肢にはならない。友達のところに転がり込むのも気が引ける。
 はあ、とため息をつくと、間近の窓が白く曇った。今年は夏が長かった代わりに秋が短かく、そろそろ終わろうとしている。今夜は特に冷え込んでいるようだ。 
 もういい大人なのにこの寒空の下、行き場がないなんて情けない。
 鼻のあたりがツンとして、涙の気配を察した妃菜子はそれを振り切るように、ちょうど開いたドアから外に出た。降りてみればそこは会社の最寄駅だった。

「とりあえず今夜は、このあたりでビジネスホテルにでも泊まろうかな……」

 都内の駅近ならホテルはいくらでもあるだろう。
 そう考えて、キャリーケースを引いて駅を出る。同僚などに見つかっては気まずいので、会社とは反対の方向に足を踏み出した。
 己を鼓舞するように少し歩幅を広げて歩いてみたけれど、一度しめっぽい気持ちになると心はじわじわと沈んでいく。

 ――お前と一緒にいると疲れる。
 ――正直しんどい。

 そんな言葉が頭の中で繰り返し聞こえて、歩調は徐々にゆっくりになり、とうとう立ち止まってしまう。

「……私ってそんなに息が詰まるような彼女だったのかなあ」

 言葉にして呟くと、思いのほか胸にじんと沁みて、目元が熱くなる。
 涙が出てこないように瞬きを繰り返して顔を上げる。
 するとそこで目を向けた先に、温かな色のライトで照らされた立て看板を見つけた。おそらく、大人がゆっくりと時間を過ごすような隠れ家的バーのものだろう。
 自分など場違いだと妃菜子はすぐに視線を外した。けれど、ふと思いついてもう一度見る。
 むしろ今の自分に必要なのは、こういう場所なのではないか。

 ――今夜だけは、なにも考えずに酔いたい。

 妃菜子は意を決してバーのドアを開いた。

「こんばんは」

 バーカウンターの向こうに立っている店員にそう声をかけられ、〝いらっしゃいませ〟ではなかったことに妃菜子は驚いた。

「あ……こんばんは」

 おずおずと返すと、ロマンスグレーの店員はにっこりと笑みを深める。
 妃菜子が一人であることを確認すると、彼は優雅な仕草でカウンター席に促してくれた。

「お仕事帰り……ではなさそうですね」

 店員が大きなキャリーケースにちらと目を向けたのが分かって、妃菜子はかすかに居心地の悪さを覚える。
 だが、今夜は飲みたい気分だからこそここに来たのだ、とすぐに気持ちを切り替えた。

「はい。……いやなことがあったんです。だから……ラフロイグをストレートでください」

 ウィスキーを普段から嗜んでいるわけではないが、ラフロイグが消毒液のような香りであることは知っていた。クズな男のせいで淀んだ感情を洗い流すには最適なお酒ではないか。
 そんな妃菜子の意図をどの程度汲んだかは定かではないが、店員は静かに頷き、しばらくして琥珀色の液体に満たされたグラスが供された。
 そのあとは、しんみりと飲みたい妃菜子の意思を尊重してくれたのだろう、声をかけられることもなく、静かにグラスを重ねていった。
 隣に誰かが座る気配がしたのは、酔いがいい具合に回り、視界も少し揺れはじめたタイミングのことだ。

「僕にもラフロイグを。それと彼女には……水を」

 彼女というのが自分を指していることに気づいた妃菜子は驚いて隣に顔を向ける。
 そこにいたのは――会社で毎日接している直属の上司、桐生佳貴課長だった。

「か、課長……」

 妃菜子は酔いも忘れて姿勢を正す。この上司は有能かつ容姿端麗なうえ、常に髪の一筋すら乱さない完璧な人で、ついついこちらの背筋も伸びてしまうのだ。
 けれど、そうしてから妃菜子は佳貴の様子がオフィスで見るのとは少々異なっていることに気がついた。
 その身なりをよく見ると、いかなるときもシワ一つないスーツは若干よれていて、ネクタイも緩んでいる。前髪は軽く額に落ちかかっていて、陰りが落ちた目元がなんともセクシーだった。

 ――セクシーって……私、上司に対してなに考えてるんだろ。

 己の不適切な思考を慌てて頭からかき消していると、手を拭ったおしぼりをテーブルに戻した佳貴がふっと柔和に目を細める。

「かしこまらなくていい。ここは会社じゃないからな。それにしても――」

 と、彼の視線が妃菜子の顔や服装、さらには背後にあるキャリーケースにまで動いてまた戻ってくる。

「三吉さんがこんなところで呑んでるなんて意外だな。一人?」
「あ……はい。一人です」

 妃菜子は一人で呑んだくれている状況を恥ずかしく思いつつ頷いた。佳貴も見たところ連れはいなさそうに見える。

「……課長も、お一人ですか?」
「ああ。時々、一人で呑みたくなったときに来るんだ」
「そうなんですね……」

 相槌を打ちつつ、シックなバーで一人でウイスキーを楽しむというのは実に彼のイメージにぴったりで、くすっと笑ってしまう。

「実にお似合いで、かっこいいです」

 そう褒めると、佳貴が一瞬虚を衝かれたような顔になったので、妃菜子は「あ」と口元を押さえた。今のは軽口が過ぎた。

「すみません、酔ってるみたいで……」

 ちょうど眼前に差し出された水を口に運ぶ。
 佳貴は「かまわないよ」と微笑みつつ、こちらもラフロイグのグラスに口をつけた。

「そう言う君は、こういう店はあまり来ないのかな」
「はい。……一人で来たのは、初めてかもしれません」
「なにかきっかけでも?」

 あまりにも自然に問われたので、妃菜子は流されるように「はい」と答えてしまう。
 それから、ああまた失言だ……と思った。浮気男に振られてやけ酒をしに来ました、なんて、この完璧な上司の耳になど恐れ多くて入れられない。
 すると、佳貴がグラスを手の中で揺らしながら、こちらをちらりと横目で見やり、口元を緩めた。

「なにかあったなら、吐き出しなさい。もちろん言いたくないことを無理に聞き出すつもりはないが……ここには気持ちを発散するために来たんじゃないのか?」

 その言葉に、妃菜子の目頭がにわかに熱を持つ。
 不意に優しさに触れると、こらえていたものがあふれそうになる。
 会社の上司になんて聞かせていい話ではないのに――でも、誰かに聞いてほしかったのも事実だ。
 本当は、一人ぼっちが心細かった。いっときだけでいいから、誰かに寄りかかりたかった。

「……同棲していた恋人に、浮気されたんです」

 声が震える。今すぐ口を閉ざすべきだ。そう思っても、佳貴の穏やかな瞳で促されると流れ出す言葉を止められなかった。

「しかも振られて……私が出ていく形になって……」
「そうか」

 佳貴の返事は軽くも重くもなく、ただ受け止めた、そんな響きがあった。
 それ以上深く聞き出そうとする素振りもなく、静かにグラスを傾ける。
 その横顔を見ていると、妃菜子は不思議と心が凪いでいくのを感じた。
 しばしの沈黙が二人の間に下りて、けれどそれがとても心地よい。
 佳貴がこくりとウイスキーを嚥下する。その喉の動きに目が吸い寄せられる。

 今夜のこの人はなぜこんなにも色っぽいのだろう――

 陶然とそんなことを考えていた妃菜子はグラスがテーブルに置かれる硬い音でハッと我に返った。

「君が話してくれたから、僕も打ち明けるが――最近、似たようなことがあってね」

 似たようなこと。
 今出ていた話題の中で、それとして当てはまりそうなのは恋人に浮気されたことだけだ。
 遠回しに告げられたことがすぐにはうまく呑み込めなくて、妃菜子はぱちぱちと瞳を瞬いた。

「――え。桐生課長が、ですか……?」

 思わず確かめるように聞いてしまう。
 佳貴はふっと相好を崩した。

「僕にそういうことがあるのは意外?」
「いえ、その……すみません。ただ、課長が浮気されるなんて、想像がつかなくて」
「そう?」

 佳貴はまた吐息で笑う。

「人というのは条件や理屈だけで相手を好きになるわけではないからな」

 それには妃菜子も深く頷かざるをえない。
 恋人がいるのに、別の相手に心惹かれてしまう。佳貴のような素晴らしい男性でも、振り向いてもらえないことがある。恋愛は頭ではなく心でするものだから、そんな不合理が当然のように起きてしまう。
 だが、彼の声音にはどこか達観しているような響きもあって、この人は見た目以上に疲れているのかもしれない……と妃菜子は思った。
 今夜の彼に、普段見受けられない綻びが見えるのも、ひとえにそれが原因なのかもしれない。
 佳貴だって言っていたではないか。一人で呑みたくなったら来ると。その心情は、もしかしたら妃菜子とそう遠いものではないのではないのかもしれない――

「まったく、いやになる……」

 その声に引き寄せられるように隣を見れば、端整な容姿の男が、椅子の背もたれに寄りかかり、アンニュイな仕草で前髪をかき上げている。
 その姿は、日頃の完璧で隙のない上司とは違う、一人の大人の男として妃菜子の瞳に映る。
 魅せられるように手を伸ばしたのは決して自覚的にした行動ではない。
 ただ、触れたいと思うと同時に身体が動いてしまっていたのだ。
 願望のままにその手は彼の左の頬から首筋の際どいところまで、流れるように下りていく。
 佳貴は動かない。拒絶もしない。
 それをいいことに妃菜子の指先は、まるで意思を持ったかのように彼の首筋をゆっくりとなぞり続ける。
 佳貴の喉がごくりと動いた。その反応に、妃菜子の鼓動が跳ねる。
 気づけば、二人の距離は驚くほど近かった。

「……それは、誘っていると解釈してもいいのかな」

 こんな雰囲気のいいバーで、互いに独り身と分かっている相手に親密に触れれば、そんなふうに受け取られても仕方のないことだ。
 ハッと我に返った妃菜子は手を引こうとするものの、その手はすでに彼に囚われていた。指と指を絡め、深く握り込まれて、妃菜子は小さく息を呑む。

「あ、の……放して、くださ……」

 弱々しい抵抗の言葉を気に留めたふうもなく、佳貴の口元がミステリアスな微笑を浮かべる。

「放してほしいなら、振り払えばいい。僕がさほど力を入れていないのは分かっているだろう?」

 そう言われて、妃菜子はじわりと己の頬に熱がのぼるのを感じた。彼の言葉があまりにもそのとおりで。妃菜子は自分から彼に囚われているのだ。
 けれど決して、こんな展開になることを期待して佳貴に触れたわけではない。
 今まで佳貴のことは純粋に上司として尊敬していたし、彼と寝たいとか、恋愛的にどうこうなりたいなどとは考えたこともない。今も、そう思っているはずだ。だって、日頃から顔を合わせる直属の上司と一夜の過ちだなんて、気まずすぎる。

 ――なのに、どうして私は、課長の手を振りほどけないの?

 これは恋愛感情ではない。ただ今夜はあんなことがあったから、誰かの温もりを欲しがっているだけなのだ。
 そう自分に言い聞かせても、身体は正直に反応してしまう。

「あまり深刻に考えるな。たまにはこんな夜があっていい。今夜は傷ついているんだ。君も――僕も」
「……っ」

 耳元で囁かれた甘い声音は、痺れるような感覚をもたらした。
 今夜くらいは溺れていい。明日のことも、佳貴への気持ちも考えず、ただこの瞬間の心地よさに身を任せていい。
 完璧な上司の声でそそのかされると、なすすべもなく頷いてしまう。この人の言うことなら安心して信じていい、そう思わされてしまう。

「ホテルに移動しようか」



 午後十時半。妃菜子は風呂上がりの身体にバスローブをまとってホテルのベッドに腰かけていた。
 バーでのやりとりのあとすぐにホテルの部屋をとった佳貴は、妃菜子と入れ替わりでシャワーを浴びている。
 浴室からかすかに聞こえる水音に、あの美しい上司が裸で湯を浴びている姿を想像しそうになってしまい、妃菜子は顔を赤らめた。
 けれどすぐに、このあとその裸の上司ともっと大胆なことをするのだと思い至ると、いろいろと許容の範疇を超えていて顔を覆ってしまう。

 ――本当にこのまま進んでいいの?

 その問いが頭の中でぐるぐると巡っている。
 佳貴がそばにいるときは彼に全てを委ねていられたが、束の間でも一人の時間を与えられると、冷静な思考が戻ってきそうになる。
 けれど――

 ――〝たまにはこんな夜があっていい〟って言ってた……

 妃菜子の中でなにが一番のネックかといえば、それは直属の上司と関係を持って気まずくなることだ。けれど、佳貴がそう言うなら、ぎくしゃくするかもしれないなんて心配は不要なのだろうとも思う。なんせ、彼は口にしたことは必ず実行する有言実行の人だからだ。

 ――だとしたら、私は……このまま進みたい……と思う。

 けれどそれは、即物的な快楽にふけりたいわけではなくて、人の温もりを感じたいのだ。誰かとつながることで、自分が他人にとって無価値な存在ではないと実感したいのだ。
 妃菜子がもの思いに沈んでいる間に、シャワーの音はいつの間にかやんでいた。
 戸の開く音とともに、バスローブに身を包んだ佳貴が姿を現す。

「課長……」

 思わず立ち上がろうとする妃菜子を彼は身振りで制すると、水差しからグラスに水を注いで一気に呷る。そのどこか野性味を感じさせる仕草に、妃菜子の胸は鼓動を早めてしまう。
 勤務中は、完全に気持ちを仕事モードに切り替えているから意識したことはなかったが、プライベートでこうして相対してみると、佳貴の容姿は実に妃菜子好みだった。

 ――というか、正直タイプ、かも……

 この人なら抱かれてもいいと思えたのは、そういった要因もあったのだろう。
 だが、それだけが理由でもない。今夜は本当に特別なのだ。
 だから、佳貴が妃菜子の肩に手を当てて、ベッドに押し倒したとき、妃菜子はつい口を開いていた。

「あの、私……本当に初めてなんです。恋人以外とこういうことをするのは。いつもこんなことしてるわけじゃないんです」

 こんな発言は、一夜だけの相手に向けるものとしてはきっとふさわしくないのだろう。軽い気持ちで行為に臨んだほうが互いに後腐れがなくて気楽だからだ。
 けれどどうしてもこの人には分かっていてほしかった。
 それは、彼が尊敬する上司であるがゆえに軽蔑されたくなかったからかもしれないし、ただ自分がそんな軽い女だと思われることに耐えられなかったからかもしれない。もしくはほかの理由があったのかもしれないが、とにかく妃菜子はそう言わずにはいられなかった。
 見上げた佳貴の切れ長の目は、わずかに丸くなり、ふっと緩んだ。

「分かっている。君がそんな軽はずみな女性ではないことくらい」

 それから、妃菜子のこめかみに優しく唇を当てて、耳元で囁く。

「僕も、こんなふうに女性を抱くのは……初めてだ……」

 その声はわずかにかすれて、たまらない色気を放っている。

 ――ああ、この人も同じなんだ。こんなふうに崩れてしまうのは、今夜だけ。

 その認識が、強張っていた妃菜子の身体から力を抜いた。
 その変化は佳貴にも伝わったのだろう。二人はごく自然に唇を重ね合わせた。
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