一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます



研究室を出る頃には、時刻は二十三時を回っていた。

培養室での細胞の世話と、翌日のカンファレンス資料の修正を終え、私は泥のような疲労感を引きずって職員通用口を出た。
冷たい夜風が火照った頬に心地いい。

早く帰って寝よう。明日は日曜日だけど、どうせ細胞の世話に来なきゃいけないし……。

そう思って、薄暗い職員駐車場を歩いていた時だった。
街灯の下に、見覚えのある白い高級車が停まっているのが見えた。
その横に、二つの人影がある。

一人は、薄手のコートを羽織った坂上先生。
そしてもう一人は、華やかな服装の、モデルのように綺麗な女性だった。

(えっ……坂上先生?)

こんな時間に密会?

私は咄嗟に近くの太い柱の陰に身を隠した。
見つかったら面倒だ、という防衛本能だったけれど、風に乗って聞こえてきた会話は、甘い雰囲気とは程遠いものだった。

「──ごめんなさい」

女性の、震えるような声が響く。

「私、やっぱり……普通の家庭が欲しいなって」

坂上先生は無言で立っている。その沈黙が、重い。

「栄くん、一週間に一度しか家に帰ってこないじゃない」

「……今は時期が悪いだけだ。論文も佳境だし、医局長から回される手術も増えてる」

先生の低い声には、いつもの威圧感はなく、どこか焦りのようなものが滲んでいた。

「その『時期』って、いつ終わるの?」

「……あと二年。博士号(PhD)が取れて、留学から帰ってくれば落ち着く。
そうしたら結婚しようって、前にも話しただろ」

「あと二年って……その頃には、私もう三十歳なんだよ?」

女性の悲痛な叫びに、先生が言葉を詰まらせる。

「いっつも当直、オンコール、緊急手術……。
デートの日だって、PHSが鳴ったら私を置いて行っちゃうじゃない。
栄くんの仕事がすごいのは分かってる。尊敬もしてる。
でも……」

彼女は涙声で、決定的な言葉を告げた。

「ロクに家にいない人と私、家庭を持てる未来が想像できないの」

「……」

「もう、無理なの。サヨナラ」

彼女は踵を返すと、待たせていたタクシーだろうか、駐車場を出て行く一台の車に乗り込んで去っていった。

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