一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
そう。……何だかんだで根は悪い人でないのだ、この人は。
だから、憎めない。
ふと、まだ私が生理機能検査室──エコー室に配属されたばかりの頃を、思い出した。
当時の私は、国家試験に受かったばかりの新米技師。
右も左も分からず、プローブを握る手も覚束ない毎日だった。
ある日の午後、オーダーが入った入院患者さんの検査をしていると、ふらりと白衣の男性が入ってきた。
まだ若いが、周囲の空気をピリつかせるような鋭い目つきの医師。
それが、坂上先生との初めての出会いだった。
「……四腔断面、見せて」
挨拶もそこそこに、先生は私の背後に立ってそう言った。
低い、感情の読めない声。
初めから、笑わない人だなと思った。
横顔を盗み見ると、驚くほど整った綺麗な顔立ちをしていたけれど、眉間の皺のせいで台無しだ。
なんて勿体無い使い方をする人なんだろう──そんな場違いな感想を抱いたのを覚えている。
「は、はい……!」
私は慌ててプローブの角度を変えた。
心尖部四腔断面。心臓の四つの部屋すべてを一度に映し出す、基本にして最も重要な断面だ。
けれど、焦れば焦るほど、画面の中の心臓は綺麗に描出されない。
患者さんの呼吸、肋骨の影、そして何より背後から突き刺さる先生の視線。
私の手は微かに震え、冷や汗が背中を伝う。
(出ない、どうしよう……。先生がイライラしてるのが分かる……)
秒針の音がやけに大きく聞こえる。
永遠にも感じる時間の後、先生が小さく息を吐いた。
「……貸して」
「あ……」
痺れを切らした先生の手が伸びてくる。
私から強引にプローブを奪い取ると、先生は私の手首をどけ、代わりに患者さんの胸にそれを当てた。
グッ、と押し込む強さ。手首の返し。
迷いのない動き。
ものの数秒だった。
モニターの中に、教科書通りの完璧でクリアな四腔断面が浮かび上がったのは。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
私が何分かけても出せなかった映像を、一瞬で。
単純にすごいという尊敬の気持ちと、プロとしてあまりに不甲斐ない申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
先生は画面上の数値を素早く確認すると、プローブを私に突き返した。
「……新人?」
ゼリーを拭き取りながら、先生がボソリと尋ねる。
私は縮こまりながら頷いた。
「は、はい。この春、卒業したばかりで……すみません、手際が悪くて」
私の謝罪を聞いた先生は、ふと手元のカルテに目を落とし、それから私を一度だけ見た。
「……そう。まぁ、俺もまだ後期研修だし」
「え?」
「偉そうなこと言える立場じゃないってことだ。
……練習しとけよ。次は一発で出せ」
それだけ言い残すと、先生は風のようにエコー室を出て行った。
残された私は、自分の未熟さと、最後に少しだけ垣間見えた、不器用な気遣いのようなものに呆然としていた。
あれから五年。
私は技師として中堅になり、先生は外科医として脂が乗り、そして今は指導教官と大学院生になった。
関係性は変わったけれど。
あの時の「笑わない横顔」と「圧倒的な実力」、そして「不器用な優しさ」だけは、何一つ変わっていない気がする。