一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
残されたのは、冷たいコンクリートの上に立つ坂上先生ただ一人。
先生は追いかけることもせず、しばらく呆然と走り去るテールランプを見つめていたが、やがてふらりと自分の車のボンネットに手をついた。
そして、深く、深く項垂れた。
「……はぁ」
その吐息は、ため息というよりは、何か大事なものが抜け落ちていく音に聞こえた。
柱の陰で、私は息を殺したまま動けなくなっていた。
心臓が早鐘を打っている。
(どうしよう。とんでもない修羅場を見てしまった……)
いつも「効率」だの「エビデンス」だの「プロ意識」だのと正論で殴ってくる、あの鉄壁の坂上先生が。
その仕事への情熱の代償として、プライベートでこんな残酷な終わりを迎えていたなんて。
「……くそっ」
先生が短く吐き捨て、バンッ! とボンネットを拳で叩いた音が、夜の駐車場に乾いた音を立てて響いた。
私は思わず目を閉じた。
見てはいけない。今の先生は、ただの「振られた男」で、傷ついた一人の人間だ。
その時、先生のポケットの中で無機質な電子音が鳴り響いた。
PHSの呼び出し音。
先生はのろのろとPHSを取り出し、画面を見た瞬間──。
先ほどまでの絶望的な表情が消え、スッと「外科医の顔」に戻った。
「……はい、坂上です。
──ああ、救急からの解離か。分かった、すぐ行く」
通話を切ると、先生はもう一度だけ、彼女が去っていった方角を見た。
しかしすぐに背を向けると、自分の車に乗るのではなく、再び病院の通用口へと大股で歩き出した。
振られた直後でも、悲しむ暇さえ与えられない。
患者が待っている限り、彼は戦場に戻らなければならないのだ。
その背中が、いつもより一回り小さく、けれど痛々しいほど孤高に見えて。
私は柱の陰で、立ち尽くすしかなかった。