一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます


翌日夜にふらりと研究室に現れた坂上先生は、それでもやはりいつもと少し様子が違っていた。

坂上先生はデスクで腕組みをしたまま、天井の一点をぼんやりと見つめている。
いつもなら眉間に皺を寄せて論文を睨みつけている時間だが、今日の先生はどこか上の空だ。
伏し目がちの横顔は、照明の陰影も相まって、悔しいけれど絵画のように整って見える。

あの駐車場での出来事を知っている私としては、その憂いを帯びた表情が何を意味するのか、痛いほど分かってしまうのだが……。
沈黙に耐えきれなくなった私は、場の空気を和ませようと、つい余計な口を開いてしまった。

「……あの、こうして改めて見ると」

「あん?」

先生が気だるげにこちらを向く。

「坂上先生って、本当に綺麗な顔立ちをなさってますよね。黙っていればモデルみたいですし……さぞかしおモテになるんでしょうね」

精一杯の世辞だった。
まさか、「振られたばかりで可哀想ですね」なんて言えるはずもない。
褒めれば少しは機嫌が直るかと思ったのだ。

しかし、先生は虚を突かれたように数回瞬きをすると──ふっ、と自嘲気味に鼻で笑った。

「……いいよ」

「はい?」

「俺、別れたばっかだし。──付き合うか?」


思考が停止した。

パソコンを操作する手が止まり、私はまじまじと先生の顔を見返した。

「……は?」


言葉の意味を理解するのに数秒。
そして、顔から火が出るのにさらに数秒。

「い、いやいやいや! そういうつもりで言ったんじゃありませんが!? 誤解です、ただの事実としての感想で……!」

私が椅子から転げ落ちそうになるほど狼狽えていると、先生は真顔のまま、つまらなそうに言った。

「冗談だよ。真に受けるな」

「じょ、冗談……ですか。ですよね、心臓に悪いです……」

私は胸を撫で下ろした。
そうだ、この人はこういう意地の悪いからかい方をする人だった。
やっぱり、私の同情なんて一ミリも必要ない鉄の心臓を持っているのだ。

帰り支度を始めようと私が立ち上がった、その時だった。

「──でも、どのみち『付き合え』よ」

先生が椅子から立ち上がり、白衣を脱ぎ捨てた。


「え?」


「別れたばっかだってのは、本当だ。
……だから、今日は死ぬほど飲みたい気分なんだよ」

先生の手には、いつの間にか私の鞄が握られている。
そして、有無を言わせぬ眼光が私を射抜いた。

「先生、 私、明日早番なんですけど……!?」

「口答えするな。奢ってやるから黙ってついてこい」

私の抗議も虚しく、先生はスタスタとラボの出口へと歩き出してしまう。

その背中は、「拒否権など存在しない」と雄弁に語っていた。

私は深いため息をついて、諦めてその後を追った。

あの駐車場の、傷ついた背中を見てしまった負い目がある。

今夜くらいは、この不器用で独りぼっちの外科医に「付き合って」あげるのも、まあ、悪くはない……かもしれない。






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