一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
焼き鳥屋を出ると、深夜の街は雨に煙っていた。
アルコールで火照った頬に、冷たい夜風が心地いいような、少し寂しいような。
千鳥足の私を支えるように、坂上先生が隣を歩いている。
先生も今日はかなり飲んでいたはずなのに、その足取りは悔しいほどしっかりとしていて、横顔は凍てつくように綺麗だった。
大通りに出たところで、先生がふと足を止めた。
「……高橋」
呼び止められ、私も立ち止まる。
タクシーを拾うのだろうか。そう思って車道を見ようとした私の顎を、先生の指先が強引にこちらへ向かせた。
街灯の逆光で、先生の表情がよく見えない。
ただ、その瞳だけが、熱を持った暗い光を宿して私を射抜いていた。
「……一度しか聞かない」
低い声が、雨音に混じって鼓膜を震わせる。
「俺と、このままホテルに行くか。
タクシーで帰るか。……選べ」
「……え?」
思考が、数秒間フリーズした。
ホテル? 帰る? 選べ?
「……? あぁ……そっか……」
酔って麻痺した頭の奥で、カチリと何かが繋がる音がした。
そうだ。坂上先生、彼女と別れたばっかって言ってたもんな。
(……きっと、誰かの温もりが欲しいんだ)
長年連れ添った恋人を失った喪失感。
激務のストレス。
それを埋めるための、手っ取り早い体温。
それがたまたま、今隣にいた私だっただけ。
「……でも、なんかずるいなぁ」
口に出したのか、心の中で呟いたのか、自分でも分からなかった。
こんな綺麗な顔して、そんなことを聞くなんて。
普段はあんなに禁欲的で、仕事と研究のことしか頭にないような鉄仮面を被っているくせに。
こんな時だけ、捨てられた仔犬みたいな、あるいは獲物を前にした狼みたいな、そんな切羽詰まった目をするなんて。
(……どう考えても、誘われてるのはワンナイトだ)
私の冷静な部分が、警鐘を鳴らしている。
これは愛じゃない。ただの傷の舐め合いだ。
先生が必死な顔をしているのは、演技に決まってる。
「誰でもいい」なんて言ったら私が傷つくから、さも「お前がいい」みたいな雰囲気を出しているだけだ。
分かってる。全部、分かってる。
明日の朝になれば、「忘れてくれ」と言われるかもしれないし、気まずい空気が流れるかもしれない。
それでも。
先生の、熱い指先が私の頬に触れた瞬間。
私は、この人の誘いをきっと断れないと悟ってしまった。
寂しいのは、先生だけじゃないから。
私もまた、誰かの体温に縋らなければ、この冷たい雨の夜に凍えてしまいそうだったから。
「……先生」
私は、自分の理性が焼き切れる音を聞きながら、その大きな手に自分の手を重ねた。
「……タクシーは、捕まらなそうですね」
それは、私の精一杯の、愚かで愛おしい「イエス」だった。