一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
それでもルーチン業務を終え、重たい足取りで研究室に足を踏み入れると、嫌でも昨夜のことが思い出された。
いつもの静寂。薬品の匂い。
けれど、今日だけは空気が違って感じられる。
デスクに、坂上先生がいたからだ。
いつもならまだ手術室にいるはずの時間帯。
無人のラボで心の準備をするつもりだった私は、不意打ちを食らって立ち尽くした。
「……今日は、お早いんですね」
努めて平坦な声を出す。喉が張り付くようだ。
先生はモニターから視線を外さず、けれどキーボードを叩く手だけを止めて答えた。
「……たまたま、手術が少なかったものでね」
「そうですか」
短く返事をして、私は逃げるように自分の席へと向かった。
あまり目を合わせることなく、パソコンの電源ボタンを押す。
ファンの回転音が、気まずい沈黙を埋めていく。
(……昨夜のことは、別に後悔している訳じゃない)
起動画面を見つめながら、私は心の中で繰り返した。
例え酔っていたとしても、私は彼を欲しがったし、彼も私を欲しがった。
そこにあったのは、ただの衝動と、需要と供給の一致。それだけのことだ。
──正直、職場の人とそういう関係になるのは、人生において初めての経験だったけれど。
先生だって大人だ。
それに、数々の修羅場をくぐり抜けてきた外科医だ。
もう、一夜だけで、あんなことなかったフリをすれば、きっと同じように「なかったこと」にしてくれる。
それが一番、傷つかない解決策だ。
『……それは、お前次第だろう』
ふと、昨夜のホテルでの、彼の低い声が蘇る。
試すような、委ねるようなあの言葉。
(……私次第、か)
マウスを握る手に力が入る。
私には、身体だけの関係をずるずると続ける不合理さも。
一度寝ただけの、明らかに「格上」の相手に、恋人関係を迫る勇気も、持ち合わせていない。
だから、今はただ、解析用のコードを打ち込むフリをして、この曖昧な沈黙に身を潜めるしかないのだ。