一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
黒い画面に、白い文字だけが浮かんでいる。
私は重たい瞼をこすりながら、キーボードに指を這わせた。
「……まずはデータ整形からだ」
> clean_data <- na.omit(data)
> positive_group <- subset(clean_data, genotype == "Positive")
> negative_group <- subset(clean_data, genotype == "Negative")
NA (欠損値)が含まれた行を弾き出して、それからデータセットを変異が陽性の群と、陰性の群に分けて……。
頭の中でロジックを組み立て、指先でコマンドを打ち込む。
カチ、カチ……。
静かなラボに、タイピング音だけが単調に響く。
黒い画面で一定のリズムで点滅するカーソルを見つめているうちに、いつの間にか、抗いがたい眠気が襲ってきていた。
(……だめ、集中しなきゃ……)
けれど、意思とは裏腹に、視界がぐらりと揺れる。
無理もないかもしれない。
昼間、あの嵐のような輸血部で、神経をすり減らして「命のやり取り」と向き合っていた反動だ。
張り詰めていた緊張の糸が、この静寂の中でプツリと切れてしまったようだ。
(あと、一行……コードを……)
カクン、と首が落ちる。
意識が、深い水底へと引きずり込まれていく。
……
…………
「……おい」
不意に、耳元で低い声がした。
それと同時に、ガクッと傾きかけた私の額が、硬いデスクに激突する──寸前で、温かい何かに受け止められた。
「……ん、ぇ……?」
ぼんやりと目を開ける。
目の前にあったのは、黒い画面ではなく、大きな手のひらだった。
坂上先生の手が、私の額と机の間に入り込んで、クッションになってくれている。
「……無防備すぎるだろ」
すぐ耳元で、呆れたような、けれど微かに笑を含んだ吐息がかかった。
「ひゃっ!?」
私は飛び起きた。
椅子がガタッと音を立てる。
至近距離に、坂上先生の顔があった。いつの間にか自分の席を立って、私の背後に回り込んでいたらしい。
「す、すみません! 寝てました!」
「見れば分かる。危うくキーボードに頭突きするところだったぞ」
先生は私の額を受け止めていた手を引っ込めると、ポンと私の頭に自分の白衣を乗せた。
「……限界なら帰れ。送ってやる」
「い、いえ! まだ解析が……」
「効率が悪いと言ってるんだ。
そんな舟を漕ぎながら書いたコードなんて、どうせバグだらけだ」
先生は私のPC画面──途中で止まったコマンドラインを一瞥すると、ふいっと視線を逸らした。
「……昨日の疲れも、あるんだろうしな」
その一言に、心臓が跳ねた。
やっぱり、この人は全部お見通しだ。
私の体力が限界なことも、気まずくて無理に仕事に没頭しようとしていたことも。
「……片付けろ。車回してくる」
「あ……はい」
先生は背を向けて歩き出す。
頭に乗せられたままの白衣から、先生の匂いと、微かな温もりが伝わってくる。
その不器用な優しさに、私はまた、断る言葉を失ってしまった。