一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
助手席のシートに沈み込みながら、私は頭に乗せられたままの白衣を膝に抱きしめた。
微かに残る先生の体温と、消毒液の匂い。
(……坂上先生って、こんなに優しかったっけ)
普段は眉間に皺を寄せてばかりで、滅多に笑わない人だ。
だから、そのポーカーフェイスの下にある心が、私には読めない。
昨夜の情熱的なキスも、今日の気遣いも、どこまでが「本音」で、どこまでが「大人の割り切り」なのか。
(……でも、期待するのは良くない)
理性が、チカチカと警告信号を点滅させる。
脳裏に浮かぶのは、あの日、駐車場で見た先生の元恋人の姿。
華やかで、洗練されていて、モデルみたいに綺麗な人だった。
あんな人が「好み」だと言うのなら、地味で、毎日試薬と培地の匂いにまみれている私は、明らかに彼の守備範囲外だ。
昨夜のことは、きっとただの事故。
あるいは、傷心による一時的な迷走。
そう自分に言い聞かせて、流れる街灯を眺めていると──。
「……なぁ」
信号待ちで車が止まると同時に、先生が低い声を落とした。
視線は前を向いたままだ。
「はい……?」
「……言っておくが」
先生は、フロントガラスを叩く雨粒を目で追いながら、独り言のように淡々と言った。
「俺は、全く興味のない相手と寝るほど欲求不満でも、無責任な人間でもないぞ」
「……え」
心臓が、とくん、と鳴った。
意味を測りかねて横顔を見つめるけれど、先生は眉一つ動かさない。
「それだけだ」
「え、それだけ……ですか? つまり、それは……」
「あとは好きに解釈しろ」
信号が青に変わる。
先生は流れるような動作でアクセルを踏み込み、会話を強制終了させた。
(……な、なにそれ)
「興味がある」とは言わない。
「好きだ」とも言わない。
ただ、「俺は無駄なことはしない主義だ」という事実を突きつけただけ。
それが、私への特別な感情の裏返しなのか。
それとも単なる「外科医としての潔癖なプライド」の話なのか。
彼の本心は、分厚い氷の壁の向こう側にあって、私にはどうしても読み取れない。
「……ずるいです、先生」
私が小さく抗議しても、先生は聞こえないふりをして、ただ静かに車を走らせるだけだった。
ダッシュボードの淡い光に照らされたその横顔が、どこか楽しげに見えたのは──私の願望が見せた幻だったのだろうか。