一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます


マンションの前に車が停まる。
エンジン音だけが響く狭い空間で、ロックが解除される音がカチリと鳴った。

けれど、私はドアノブに手をかけられないまま、助手席で固まっていた。

「……降りないのか?」

先生が、ハンドルに肘をつき、頬杖をつきながらこちらを見ている。

その瞳は、獲物を値踏みするような、どこか楽しげな光を帯びていた。

「……先生の、言っている意味が。よく分からなくて」

「日本語通りだ」

「だから、その……『興味がある』っていうのは、どういう……」

私が言い淀むと、先生はふっと短く息を吐き、身体をこちらへ傾けた。

シートベルトを外した胸元が近づく。
逃げ場のない距離で、低い声が囁かれた。

「……俺は、効率の悪い駆け引きは嫌いだ」

「……っ」

「俺はカードを切ったぞ。『無関心ではない』とな。
……次は、お前の番だろ」

先生の指先が、私の髪を一房すくい上げ、弄ぶように触れる。

「このまま『ただの指導教官』に戻るか。
それとも、その先へ踏み込むか。
……決定権は、お前に委ねてやる」

(……うわ、ズルい)

私は唇を噛んだ。

「委ねてやる」なんて言っているけれど、これは優しさじゃない。 
「俺からはこれ以上言わない。お前が俺を欲しがれ」という、傲慢な命令だ。

自分が傷つくリスクを最小限にして、私に言わせようとしているのだ。

「先生が好きです」「先生が欲しいです」と。

「……先生は、本当に性格が悪いですね」

「知ってるだろ」

「……私に言わせたいだけじゃないですか」

「さあな。
……で、どうする? 降りるのか、残るのか」

先生は、答えを知っているくせに、意地悪く沈黙を守っている。
その余裕綽々な態度が悔しいけれど──。
それ以上に、そんな風に試されること自体に、喜びを感じてしまっている自分が一番重症だ。

私は覚悟を決めて、先生のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。

「……降りません」

「……理由は?」

「言わなきゃ、ダメですか」

「ああ。俺は察するのが苦手でな。言葉にしないと分からない」

(嘘つき。全部わかってるくせに)

私は熱くなる頬を自覚しながら、震える声で告げた。

「……先生と、一緒にいたいです。
……今日は、帰りたくありません」

それが私の精一杯の降伏宣言だった。
それを聞いた先生は、満足そうに目を細めると、

「……よくできました」

と、子供を褒めるように私の頭を撫でた。

「──なら、連れて行く」

再びエンジンが唸りを上げる。
この人には、一生敵わない。
アクセルを踏み込む横顔を見ながら、私は心地よい敗北感に浸っていた。



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