一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
以前、まだ臨床一辺倒だった頃。
先生の書いた論文を、一度だけこっそりと読んだことがある。
それは、今私たちが取り組んでいるようなiPS細胞を使った基礎研究とは全く別の、純粋な臨床──心臓血管外科の手術手法に関する論文だった。
PubMedの検索リストの中で、異彩を放っていたそれを開いたのは、本当に単なる興味本位からだった。
『弓部大動脈置換術における血流動態の数値流体力学(CFD)シミュレーション』
タイトルからして、難解さが漂っていた。
それでも、掲載されていたのは、若手が筆頭著者の論文にしては異例なほどインパクトファクターが高い、循環器領域のトップジャーナルだ。
画面の端に表示された被引用数も、同年代の医師の中では桁違いに多かったことを覚えている。
(……外科医って、手術が上手いだけじゃないんだ)
恐る恐るPDFをスクロールしてみたが──。
内容は……正直、数式も多くて、よく分からなかった。
微積分や流体力学の記号が踊り、血流のベクトルが複雑なグラフで示されている。
「感覚」や「経験」で語られがちな手術の手技を、彼は冷徹なまでの「物理法則」と「数学」で証明しようとしていた。
『最適な吻合角度は、この数式によって導き出される』
そう語る文章は、まるで彼の性格そのもののように論理的で、隙がなくて。
そして、私には到底追いつけないほどの知性が詰まっていた。
(……やっぱり、バケモノだ)
そっとブラウザを閉じた時の、あの敗北感にも似た溜息。
あの時感じた「住む世界が違う」という感覚は、一緒の研究室で時間を共にすることが増えた今でも、やっぱり消えずに心のどこかに残っている。