一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
シャワーを終えてリビングに戻ると、彼がソファから顔を上げ、無言で手招きをした。
導かれるままにそばへ行くと、自然な流れで唇が重なった。
昨日の、何もかもを奪うような激しさとは打って変わって。
それは、驚くほど優しく、繊細なものだった。
唇の形を確かめるような、慈しむような、甘い接触。
シャワー上がりの石鹸の香りと、彼自身の体温に包まれて、私は陶然としながら彼の肩に手を回した。
「……ん、……せん、せい」
無意識にその呼称が漏れた瞬間、唇がわずかに離された。
至近距離で、熱を帯びた瞳が私を咎めるように見下ろしている。
「……ここまで来て『先生』はやめろと言っただろう」
「……っ」
低い声で嗜められ、私は唇を噛んだ。
昨夜も言われた言葉。
けれど、染み付いた上下関係はそう簡単には抜けない。
それに、彼が私のことを──
「……じゃあ」
私は勇気を振り絞って、彼のバスローブの襟元をぎゅっと掴んだ。
「……私も、名前で呼んでください」
「あ?」
「いつも『高橋』じゃないですか。
……こんな時まで名字で呼ばれると、研究室で怒られてるみたいで、身体が緊張しちゃうんです」
半分は嘘で、半分は本音だった。
ただの「指導教官と学生」という関係を一線越えるための、私なりの条件提示。
「高橋」と呼ばれる限り、私はいつまでも彼の部下でしかない気がしたから。
先生は一瞬、虚を突かれたように目を瞬かせた。
それから、ふっと口元を緩め、楽しげに目を細めた。
「……生意気な」
「だ、だって……」
「いいだろう」
先生の顔が近づく。
耳元に、熱い吐息がかかった。
「……有希」
低く、甘く、鼓膜を震わせる響き。
名前を呼ばれただけなのに、背筋に電流が走ったように痺れた。
怒鳴り声でも、指示出しでもない。
男の人が、女の人を呼ぶための声色。
「……これでいいか?」
「……っ、はい……」
「なら、お前も呼べ」
逃げ場はない。
私は震える唇を開いた。
「……え、栄人……さん」
呼び捨てにする勇気はなくて、精一杯の「さん」付け。
それでも、口にした瞬間、心臓が爆発しそうになった。
憧れで、天敵で、雲の上の存在だった人の名前を、私の舌がなぞっている。
「……上出来だ」
彼は満足そうに囁くと、再び唇を塞いできた。
今度は、さっきよりも深く、所有欲に満ちたキスだった。
名前を呼び合うたびに、私たちの間の分厚い壁が、音を立てて崩れていく気がした。